四国霊場 歩くことが遍路であり修行です。

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私は2016年初夏 に
四国霊場108番札所1400kmを
ランニングだけでそれも野宿だけで22日間で結願しました。


よく質問されるのですが 

四国霊場を走って人間として変わりましたか?と質問されます。


その答えですが





YES!



僕は四国で考え方も生きることもあらゆることに変化を感じました。
四国を走っていていて私に触れた人たちの出会いに
本当に本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
野宿って
確かに過酷です!
自然の中にひとり強い雨風に晒された寝床を求めて
四国霊場を徘徊するのです。
ホテルに泊まれるお金はあります。
でも、野宿することが修行だと私は信じています。
あの時の不安や失望などあらゆる感情を
得ながら私は走りました。


凍える身体に
寝袋に入りみ一時の安息的な時間がどれだけ大切なことか?
私はそれを知ることができました。
そして、人としてホントに大切なことはお金や地位などでなく
人としての優しさが人として価値を高めることも知りました。

言葉で理解することは簡単です。しかし、リアルで
遍路道を進むと
やはり感動する人との出会いにしかありません。


思えがガンで亡くなった友への慰霊での四国霊場でした。
でも、四国霊場をランニングだけで走ることをFBで更新していくことに大きな変化を私に与えてくれました。

思い会えせばそのことを知った見知らぬ友が
私のためだけに言葉をかけてくるれるのです。
信じられますか?特に有名人でもない私のために
遍路道を追っかけてくれるのです。


本音をいえば
初対面の相手にどう対応していいのか私もよく理解してませんでした。
でも、私は思ったのです。

自分の素を出せばいいのです。へんな格好や思い込みを捨てるのです。
それだき素を出せば両肩が楽になります。

いま、どれだけ人は両肩に重りを担いでいるのでしょうか?
四国霊場は、自分探しの旅と言われます。

それも正解だと思いますが、でも違うと思います。

四国霊場はやはり人の出会いだり人として生きることを
模索する道だと思います。

人間には喜怒哀楽があります。でも何もない四国霊場ではあるがままに生きることになります。



小さなことに怒り悲しむことに、何が意味があるのでしょうか?
無の私には出会った人からどれだけ
有を頂いたことでしょうか??
私も同じですが
欲があります。
その欲を肯定したり不定したりする気もありません。
また、とやかく人を非難したり喧嘩することも
本来を正せば、この欲がそれぞれの人たちの格闘を産んでいくのだと私は信じています。
歩くとで四国霊場は、自分を見つめる事もできます。
でも、それだけではありません。
なんども言いますが
一番いいことは、人への無償の愛が大切だと 


私は
四国霊場で確信しました。
強い風雨の中であふれる川のような遍路道をひとり起伏の厳しい遍路ころがしの急登をずぶ濡れになりながら私は何をしているのだろうか?と何度も何度も最初の頃は自問を繰り返していました。こんな遍路さんとして何がいったい私に利益があるのだろうか?
四国霊場は88番札所をめぐるオリエンテーリングではないのか??
不謹慎にも四国霊場への不安な気持ちと損得勘定の思いが
混在してた。


慰霊の四国霊場ではあるが、四国を巡拝するだけが
なき友の想う旅だとすれば別な選択肢もあるのではいだろうか?
松山で生まれ地元で育った友の故郷が四国だけのキッカケで
四国への巡拝するしかないことが発心するまでにはそれほど
時間はかからなかった。


この巡礼旅は、私にとっては時の旅人のような気がします。
過ぎ去った時を手繰り寄せるように
色あせた写真をひとつひとつ、あちこちに散乱した欠片を拾いつなぎことのように思えてならないのです。

それはこれまえでの人との出会いを結ぶ旅だとも言えるかもしれない。
私と関わったであろう人たちへ
喧嘩別れしたこと
誤解と偏見に満ちたこと
損得勘定だけの行動にあること
嫉妬など人を傷つけること。
意地悪やいじめを感じたこと。
そんなあらゆる行動と感情へとの時を見つめる旅なのです。

巡拝記 










Day11:shikoku Pilgrimage 四国霊場108番所巡礼走り旅1400km 凍えて夜の小さな駅にひとり

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