期待の国の出口、あるいは東京という名の巨大な自動機械について:完全版
期待の国の出口、あるいは東京という名の巨大な自動機械について:完全版 1. 血管の中の赤血球、新宿駅の沈黙 新宿駅の地下道を歩いていると、時折、僕自身が巨大な生物の血管の中を流れる赤血球になったような錯覚に陥ることがある。1日350万人。その数字はもはや統計学的なデータではなく、ある種の物理的な圧力として僕たちの皮膚に迫ってくる。 先日、ネットに流れていた東京がいかに特異なメガシティであるかを解説する動画を見た。ニューヨークの2倍の人口を抱え、「フェリカ(Felica)」という0.1秒の瞬きのような速度で処理される改札を抜け、暴力的なまでの静寂と秩序が維持されている街。海外の人間はそれを「奇跡」や「魔法」と呼んで称賛する。だが、その称賛の響きの中に、僕は言いようのない空虚さを感じてしまう。 僕たちは、この「完璧なインフラ」という名の檻の中で、あまりに長く過ごしすぎたのではないか。 新宿駅という巨大な心臓は、正確なビートを刻み、人間という名の細胞を四方八方へと送り出す。そこには「意思」の介在する余地はない。あるのは「流れ」だけだ。誰一人として声を荒らげず、ぶつかり合うこともなく、ただスマートフォンの画面に視線を固定したまま、吸い込まれるように改札を抜けていく。その光景は、完成された機能美であると同時に、戦慄を覚えるほどの非人間性を孕んでいる。 2. スパイラル状の諦念と、秩序という名の麻薬 動画の中で語られる東京の姿は、確かに美しい。江戸から続く「渦巻き状(スパイラル)」の都市構造。かつての徳川の官僚たちが、都市の拡大を見越して設計したというその堀の形が、現代の東京の柔軟な発展を支えているという。あるいは、住宅と商店が緻密に混ざり合う「ゾーニング(用途地域)」の柔軟さ。 だが、その規律の正体は何だろう。それは「自立した個」が自ら選択した合理性ではなく、この巨大なシステムを維持するために僕たちが無意識に差し出した、静かな「諦念」の裏返しではないのか。 かつて、僕は『希望の国のエクソダス』という小説の中で、「この国には何でもある。だが、希望だけがない」と書いた。 東京という街は、機能的には世界で最も「完成」された場所だ。安くて旨い外食、秒単位で正確な電車、夜道に一人で歩ける安全性。それらはすべて、僕たちが「リスク」と「ノイズ」を徹底的に排除し続けた結果として手に入れた果実...






