歩き遍路 冬 「吹雪の峠道で、僕が死者たちと共有した沈黙について」
冬に四国を歩くということは、ある種の特殊な精神状態を自ら選ぶということだ。それは、日常という名の温かいスープから這い出し、凍てついたナイフのような現実の中に身を投じる行為に等しい。僕たちはなぜ、わざわざそんなことをするのだろうか。その答えは、アスファルトの上に降り積もる沈黙の中にしか存在しない。
1. 舗装道路の上に降り積もる、凍てついた沈黙について
十二月の終わりから一月にかけて、土佐の海岸線を離れて伊予の険しい山道へと足を踏み入れるとき、世界はそれまでとはまったく違う顔を見せ始める。空は低く垂れ込め、古いアルミニウムのような色に変色し、そこから吐き出される風は鋭利な刃物となって僕たちの皮膚を削り取ろうとする。
歩き遍路における孤独は、都会の片隅で感じるそれとは決定的に質が違う。それは単なる欠落ではなく、過剰なまでの純粋さだ。誰とも話さず、ただひたすらに右足の前に左足を出し、左足の前に右足を出す。その単純な反復の果てに、孤独は透明な粘体となって僕たちの全身を包み込む。
吹雪が始まると、視界はたちまち数メートル先にまで狭まる。自分が今どこにいるのか、何のために重いザックを背負っているのか、その輪郭が曖昧になる。雪を噛むブーツの重苦しい響きだけが、僕がまだ現実の世界に繋ぎ止められている唯一の証拠だ。
その静寂の中で、僕はときどき、この道に消えていった無数の人々の気配を感じることがある。かつてここで力尽きた者たち、あるいは祈りを抱えたまま去っていった者たちの影だ。それは決して不気味なものではない。むしろ、古くて質の良いウール毛布のように、僕の冷えた心を静かに温めてくれる。
2. 吹雪の峠道で行われる、個人的な慰霊のプロトコル
巡礼の目的は人それぞれだ。煩悩を捨てるため、健康を祈るため、あるいは単なるスポーツとして。しかし、強風に煽られながら険しい坂道を登り、線香の煙さえも冬の空に奪われるような場所に立つとき、僕はどうしても「慰霊」という言葉を避けて通ることができない。
それは誰か特定の有名人のための儀式ではない。もっと個人的で、もっと名もなき死者たちのためのものだ。僕自身の人生の中で、いつの間にかこぼれ落ちてしまった人々。きちんとしたさよならを言えないまま、記憶の隅に追いやられた感情。
雪が顔に当たって痛い。指先は感覚を失い、呼吸は白く凍りつく。そんな極限状態の中で、僕は静かに目を閉じる。
死者を想うとき、僕たちは彼らの不在を嘆くのではなく、彼らがかつてそこに存在したという事実に光を当てるべきなのだ。それはある種の高度なプロトコルだ。僕が歩く一歩一歩が、見えない誰かのための供養になり、同時に僕自身の欠落を埋めていく。
「死者に安らぎを、生者に光を」
そんな手垢のついたフレーズが、四国の湿った冬の風に乗ってやってくると、不思議とそれが真実味を帯びて聞こえる。ここでは生と死の境界線が、まるで朝霧のように曖昧になっているからかもしれない。
3. 険しい坂の果てに見つかる、小さな光のようなもの
結願(けちがん)というゴールを目指して歩いてはいるけれど、実はそんな目的地に大した意味はないのかもしれない。大事なのは、その過程でどれだけ深く自分自身の孤独と向き合い、どれだけ多くの「見えない隣人」と対話できたかということだ。
巡礼とは、ある意味で、自分の中に眠る「死者」との共同作業だ。
足の裏にできた肉刺(まめ)の痛み、容赦なく吹き付ける雪、そして体温を奪い去る強風。それらすべてを受け入れ、ただ歩き続ける。すると、ある地点で不意に、孤独が「自由」に変換される瞬間がやってくる。
それは、深い井戸の底で静かに水を汲み上げているような感覚だ。暗くて孤独だけれど、そこには確かな手応えがある。
僕たちは一人で生まれ、一人で死んでいく。それは動かしがたい事実だ。けれど、こうして長い道のりを歩き、名もなき誰かのために祈りを捧げるとき、僕たちの孤独は孤立ではなくなる。それは、世界という大きな物語の一部として、静かに調和し始めるのだ。
宿に着き、重い靴を脱ぐ。窓の外には四国の深い山々が暗闇の中に沈み込んでいる。明日もまた、僕は歩き出すだろう。まだ見ぬ景色と、自分の中に眠る静かな死者たちのために。
それはおそらく、この世界で最もまっとうで、最も孤独な、美しい作業のひとつなのだ。
冬の厳しい遍路道について、装備のアドバイスや、さらに深掘りしたい感情のディテールなどはありますか?


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