理想の死


「理想の死」に日本人は長いこと、とり憑かれてきた。
「一旦の身命を助けんために、多年の忠烈を失ひて、降参不義の行跡(ふるまい)を致す事あるべからず……」
楠木正成は、1336年、自害の直前、息子にそう言い残したと伝えられている(『太平記』第十六巻より)。
よく死ぬこと、栄誉ある死、思い通りに死ぬこと──それが最も大切なことだった。無様な死は人生すべてを茶番にしてしまうからだ。
第二次世界大戦の神風特攻隊員たちにとって、死とは人生の縮図だった。究極の勇ましさと自己放棄。日本で古来から儚い美しさの象徴とされてきた桜に、彼らは自分を重ねて見た。

「潔く 散りて果てなむ 春の日に われは敷島の 大和さくら子」
当時22歳だった特攻隊員が詠んだ句だ。
戦後日本の偉大な作家・三島由紀夫は、芸術的天才の絶頂において輝かしい終わりを迎えた。若き三島は『詩を書く少年』のなかでこう綴っている。
「花火みたいに生きよう。一瞬のうちに精一杯夜空をいろどって、すぐ消えてしまおう」
だが皮肉なことに、日本は世界一の長寿国となり、何百万もの人が「狭間」にある。すなわち、まだ死んではいないが、かといって完全に生きているのでもない状態だ。
高齢者たちは薬漬けの日々を送る。歩くにも、食べるにも、トイレに行くにも助けがいる。転ぶのは日常茶飯事、転べば骨は小枝のように折れてしまう。思考に靄がかかれば、自分の子どもの顔を認識するのさえ難しい。
最後の数ヵ月、あるいは数年を病院のベッドから出ることなく過ごす人もいる。緩んだ口はぱかりと開き、身体に繋げられたチューブから液体を流し込まれながら。長寿という恩恵は、もはや呪いとなってしまった。
「大同小異のパジャマを着た姿が、男女の差も不明瞭なまま、車椅子の間を縫い、ふらふらと病院の廊下を行ったり来たりしている姿は生きた亡霊のようであった」

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