走禅の道:禅とは信仰ではなく修行である
禅とは 「禅とは信仰ではなく修行である」とよくいわれます。
そこにはいわゆる霊魂や死後の世界といった考え方は採りません。
そこにはいわゆる霊魂や死後の世界といった考え方は採りません。
特定の教義と か、坐禅に関する教えを説くための経典とか、信仰の対象として崇めるような神な どといったものはないのです。
やるべき事はただ古来からの規則に則って坐禅を行 じ研鑽を積むことにより、人が生まれながらにして以っている「本来の面目」に立 ち還ることを目指しているのです。
走禅とは
そもそも「坐禅」とは何でしょうか?
心が整った状態のことを“禅”といいます。坐禅の“坐”は、「その身そのままで」という意味があり、その身そのままで自分自身を見つめて心を整えていく…つまり、頭を空っぽにして無心な状態にする、というのが坐禅の基本です。
ほかにも、
立って行う“立禅”、
歩きながら行う“歩行禅”、
走りながら行う走禅
横になる“仰臥禅(ぎょうがぜん)”
などがあります。
自分自身を見つめて心を整えていくのであれば、走る、歩く、食う、寝る、働く、坐を組む…生活の中の全てが禅になります。
■走禅の道
よく「坐禅の道」というものは坐禅をやることによっ て得るものは何ものもない。
それはむしろ“捨ててゆく”道なの です。
人間は生まれてから生きていく過程で色々経験を積んでいつのまにか「自己 」というコアを作り上げていきます。
その自己を中心にして判断し動いていきますが、意外にもその“自己”とは一体何 であるかを突き詰めようとはしません。
そうでありながら自らの人生において、そ の自己を中心にいろいろの思想信条や生活の形を造り上げているのです。
禅の道は、己れの「真実の本心に立ち還る道」以外の何ものでもないのです。
このような道は、科学に矛盾するものでないばかりか、現実にありがちな科学が技 術と結びついてものごとが本末のあるべき姿を見失い、公害や自殺の凶器に転落し ようとするのを引きとめて、その本来のすがたに戻すものでもあるのです。
■真実の己れ
今や世界の多くの人々は、「真実の己れ」に目覚めることなく、自分の信仰や世界 観、利害の対立の中で正しい人間の道を見失い、或いは底なしの闘争や、あるいは 細かい専門領域の袋小路に入り込み、あるいは自堕落な享楽にふけって、真の理想 と希望のない生活のなかで、結局はそのような現状にあえいでいるのが実体なので はないでしょうか。
禅は、多くの宗教の中で、神秘的教義や信仰を立てず、霊魂や死後の世界を語らず 、真実の本心をよび覚ます道を直接示してくれます。
それは、科学を本当の姿に甦 らせ、社会の現実の営みの直中にあって、正しく・楽しく・仲のよい世界建設のた めの正しい道を開示するのであります。
まことに禅こそは、現代のための宗教といえるのです。



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