死に方への考察
四国霊場 死を知り生きるを悟る |
なぜ「生」を語るのに「死」を取りあげるのか。そこには、「死に方」を学ぶことこそ悔いのない人生を送るために必要であるという。
人はもっと生だけを見つめるのではくて、死も同じように見つめなおすべきだと思います。
死は誰もが逃れられない。しかし、長寿社会で生きる現代人は死を遠ざけ、希薄化し、死に対して不感症になりつつあるのではないだろうか。
古典からの叡智をひもときつつ、死を意識し、考えることは、すなわちより“よく”生きる方法を見つけることにつながる。
日本人が向き合ってきた生老病死―。先達たちの姿勢を見れば、現代に生きる私たちも居ずまいを正さずにはいられないはずだボクは確信します。
死に方への考察
死とは誰でも訪れる事象であり、避けて通れない摂理でもある。
お金があろうが知名度があろうが、人間平等に訪れるのだ。
しかし、その同じ死でも違うことがある。
そう!!死に方が人それぞにあるのだ。
例えば、
あるときは病院のベッドで、あるときとは車に轢かれて、あるものは電車に飛び込み、ある人は首吊り、あるときは事件に巻き込まれて、あるときは心中を、あるときは登山で遭難してなど いろいろな死に方がある。
最後を迎える一瞬がひとそれぞれに違っているです。
太宰治の入水自殺
ボクは、文豪太宰治に関心があり、彼の自叙伝を参考にかれの生い立ちからその死に方に興味が沸いてくるのです。
例えば東京三鷹は彼が約7年ほど住んだ土地で、また終焉を迎えて土地でもある。
玉川上水に愛人山崎豊栄とともに入水心中するのですが、その死に方もドラマとは違い無残な形相であったと言われています。
だがそれが、太宰治の死に方の回答であり結論です。
太宰治という人間は。過去5回も自殺未遂を繰り返しています。
だが、彼だけが生き残っている事実を知ると、ただ運が良かったからという言葉では済まない気がするのです。
多くの女性遍歴を重ねた彼の内情を推し量ることもできないが、
ボクは本とは生きたいと言っているような気がしてならないのです。
誰かに自分の存在を知ってもらいた、慰めてもらいたい、気づいてもらいたいといった複雑な感情が脳裏に渦巻いていたのではないだろうか。
太宰治という人間の死に方がいいかどうかは別にして、彼の死に方で選択し決断したわけです。
死の技術
死を真剣に考えると
生きることに前向きになり、周りの人間について考えるようになる。
どやって死を迎えるか?という命題には人それぞれの回答が用意されていると思います。
ほとんどの人は「苦しまず」「穏やかに」「ポックリと」死にたいといいますが、運任せにしてうまく死ねる人はほとんどいません。
日本人のおよそ8割は病院で死にますが、なまじ延命治療技術が発達してしまったため、病院のベッドに何か月も縛りつけられたまま拷問のような状態で死を迎える人がたくさんいます。
実際、私の父はそういう死に方でした。
脳細胞が壊れ、もう回復の見込みはまったくないのに、意識はあり、栄養経管をつけられ、唯一動かせる左手は縛り付けられたまま、無表情に私を見つめる姿を忘れることができません。
そうなったら最後、本人はもちろん、家族にも何もできないのです。
日本が世界でも稀に見る超長寿・超高齢国家になった今、「死に方」「死に場所」「死に時」を間違えることほど恐ろしいことはありません。
最悪の死に方を避けるには「具体的に」どうすればいいのか──その「死ぬ技術」について熟考すべきだと思います。
一つの方法と安楽死があります。日本では法整備が十分でなく
延命処置崖が優先させられています。医療の現場を知ると
死ぬ技術ではなくて生かす技術が優先させられていて
家族の精神的なまた肉体的も悲惨な苦痛やが伴います。
まとめ
生きること、死について考えること
生きること、死について考えること
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