死と煩悩を見つめて
日蓮宗のお坊さんから #荒行 の話を聴いた。
午前2時半に起床、3時から水行。次の水行の3時間後迄ずっとお経を唱える。これが1日中続く。
食事はお粥、梅干、味噌汁で1日2回。これを100日間続ける。
三大欲求は、睡眠欲が一番強く、次が食欲、性欲はなくなる。
煩悩の塊をボクは聴いているだけで目眩がした。そして
煩悩の数だけ人生を苦しめることも知り、また死という言葉が身近にボクには映るようにもなった。
人間誰もが必ず迎える最期のとき。多くの方は、「眠るように穏やかに死にたい。」と願っていることでしょう。ずっと「長生き」が尊ばれてきた日本。ではそんな日本において、尊厳死とはどのような状況なのか。詳しく考察したいと思います。
自然死とはどのようなものか
静かに天寿を全うできる「自然死」「老衰」。いったい、どのようなものでしょうか。身体の状態にあわせて眠っている時間が長くなり、少しずつ呼吸も穏やかに止まっていく。これが、最期を迎えられるということです。
亡くなる前には、しだいに食べられなくなっていくでしょう。たとえ点滴で無理やり栄養分や水分を身体にいれても、身体はもう対応できなくなっています。人工的栄養補給は本人の生命維持に有効です。しかし生きている時間は少し長くなっても、自分らしく過ごせるという期待はできません。
老人ホームや病院では、本人がまだ意識があるうちに「ガンを告知するかどうか」「生命維持装置を使うかどうか」を聞き、文書に残していくようになってきました。そこでは、ほとんどの人が「告知して欲しい。」「生命維持装置は使わないでほしい。」と答えています。しかし実際にはさまざまな管を入れられ、意識のないままに一日中寝ている人が多くいる状況。これは、いったいなぜなのでしょう。
その原因として考えられることの1つが、脳卒中や急性の症状が出た際につけた維持装置について、外すタイミングを逃してしまうことです。急性の症状は、適切な対応によって一命をとりとめ、その後に維持装置を外すことができます。しかし外せなかった場合が問題です。点滴や導尿、心臓ペースメーカーなど。
つづく
コメント