もう一つの226事件 湯河原

 #千日回峰行20km@湯河原







僕は歴史が好きである。歴史とは、善悪さえも良くも悪くも懸命に真剣に生きた人々の物語なのである。


そして、僕は歴史から学び学習し、自らの行動規範としての

ひとつのバイブルである。


さらに湯河原での歴史の記憶の中に226事件が刻まれている。伊藤屋である。226 事件の現場にもなった歴史ある旅館です。


■2・26事件と湯河原

(1936年(昭和11年)2月26日珍しい大雪の早朝、国家改造(昭和維新)を目指す陸軍の一部青年将校らは1400人余の部下将兵を率いて、首都の中心部を占拠し、軍・政府高官の官邸、私邸を襲うという、日本近代史上未曾有のクーデター未遂事件 2・26事件 を起こした。

この事件で斎藤内大臣・高橋蔵相・渡辺教育総監や護衛の警察官らが犠牲になったほか、多数が負傷した。)


この事件で、東京以外の唯一の現場となったのが、ここ湯河原の 光風荘 である。

老舗旅館伊藤屋の元別館 光風荘 には、前内大臣の牧野伸顕伯爵が静養のため家族、使用人とともに滞在していた。

天皇側近として国政の中枢にあり、リベラルな考え方で政・官・財界に影響力を持っていた牧野伯爵は、急進的な青年将校たちに天皇の判断を誤らせる 君側の奸(天皇を取り巻く悪者) と見なされ、襲撃の対象となった。


2月26日早朝、東京から雪の湯河原に着いた河野壽(こうのひさし)大尉以下8名の別働隊は、 光風荘 を急襲。


当直の護衛官・皆川義孝巡査と銃撃戦のあと同荘を放火炎上させたが、目指す牧野伯爵は地元消防団員らの活躍で脱出に成功。

この事件で護衛の皆川巡査は死亡。河野大尉も部下の下士官とともに重傷を負ったほか、伯爵づきの看護婦や地元消防団員も銃弾や消火作業で負傷した。


事件後、河野大尉は、収容先の熱海の陸軍衛戍病院(分院)で、差入れの果物ナイフで自決した。


伊藤屋からすぐそこに離れがあり、今かは記念館となっている別館の光風荘である。


見学可能なのは土日祝日の10時〜15時です。


この離れこそが226事件の現場になったところです。


226事件ってそもそも何でしょう。


1936年に青年将校たちが起こしたクーデターです。


青年将校たちが同時多発であちこちで政府の要人を襲撃した際に、要人の1人が光風荘に宿泊していたためここで襲撃されました。


 226事件で若手将校渋川善助が牧野伯爵を偵察していた湯河原伊藤屋旅館19号室に宿泊していた。


因みに牧原伯爵の孫に元首相の麻生太郎がいる。


おそるおそる光風荘を玄関からのぞいたところ、ボランティアの方がやっているガイドツアーに入ることになりました。


勝手に見て回ることはできない仕組みです。


それほど時間をとる予定ではなかったので一瞬ためらいましたが、成り行きで案内してもらうことに。


結果、すごくよかったです!


 


光風荘は昔の広めの普通の家といった印象。


まずは外が見える廊下に案内されます。


「え、展示もない廊下になんで?」と思いました。


ガイドさん「ここから伊藤屋の19番の部屋が見えますね。あの部屋からスパイ(青年将校)がここをのぞいていたんです。」


臨場感たっぷりで、いきなり惹きこまれました。


 


次にまたもや展示を通り過ぎて、普通の台所に案内されました。


台所の勝手口から事件の起きた朝、「電報です」と言って青年将校が入って来たんだそうです。


ガイドさんの案内があまりにも迫真に迫っています。


将校と、要人の護衛がここで銃を打ち合って、ここに倒れて、その間に要人が庭に逃げ出して・・・


と、現場をたどるように私も移動します。


 


一連の事件の紹介があったあと、やっと展示の紹介になります。


いろんな将校の写真が飾ってあって、当時の新聞報道や、CDで天皇の声まで聞かせてくれました。


 


青年将校も世の中のためと思ってクーデターを起こしたのに、結果として天皇に怒られて不憫です。


光風荘の展示も、どっちを責めるわけでもなく中立だったので救われました。


 


結局ガイドツアーは30分ぐらいかかりましたが、全然飽きなかったです。


むしろこの旅行で一番印象深い出来事となりました。


無料なのですがボランティア活動を支える募金箱があったので、帰りにちょっとだけ入れさせてもらいました。


 


帰りにボランティアの年配の男性に湯河原にお泊まりですかと聞かれて、「伊藤屋です(ニヤリ)」「19番ですか?」「だったらいいですね」というやりとりが楽しかったです。


※渋川善助しぶかわぜんすけ

福島県若松市七日町の海産物問屋の長男に生まれた。会津中学校、仙台陸軍地方幼年学校を経て陸軍士官学校予科に進み、御前講演を行うほど成績優秀であったが、陸軍士官学校(39期)本科卒業目前に教官と衝突し退学となる。その後1928年(昭和3年)、明治大学専門部政治経済科に学び[1]、国家主義運動にかかわる。明大卒業後の1932年(昭和7年)に、杉田省吾、西田税、福井幸、加藤春海等とともに維新同志会を結成した。二・二六事件に関わり(後述)、1936年(昭和11年)7月12日、死刑(銃殺刑)となった。享年30。


少年時代を過ごした部屋。会津若松市七日町の渋川問屋内に現在でも保存されており、松本清張や三島由紀夫が訪れている。生前の三島由紀夫が訪れ「憂国の間」と名付けた。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E5%B7%9D%E5%96%84%E5%8A%A9


※河野壽こうのひさし

河野 壽は、日本の陸軍軍人。航空兵大尉。所沢陸軍飛行学校操縦学生。 二・二六事件に参加、湯河原で牧野伸顕前内大臣を襲撃したが負傷、後に自決した

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E5%A3%BD


※牧野伸顕

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95


※伊藤屋旅館

http://www.itouya-net.jp/backup/01_about/02.html


【追求】


■湯河原 「2・26事件」 の主な登場人物


牧野 伸顕 伯爵

(まきの のぶあき)


明治の元勲大久保利通の次男として1861年(文久元年)、出生。官界に入り文相・農相・外相・宮相を歴任。1926年(大正15年)から1935年(昭和10年)まで内大臣として政界に隠然たる勢力をもつ。

2・26事件では親英米派として、湯河原滞在中を襲われるが、救出されて無事。

当時75歳。

吉田茂元首相は、長女牧野雪子の婿。吉田の長女和子は、祖父伸顕とともに事件に遭遇した。

1949年(昭和24年)没、88歳。


吉田(麻生) 和子

(よしだ かずこ)


牧野伸顕、峰子夫妻の孫。2・26事件当時20歳。

祖父母に付き添って湯河原に滞在中事件に巻き込まれ、牧野伯爵を外に逃がすなどした。

父は吉田茂元首相。のちに麻生太賀吉に嫁ぐ。麻生太郎 現副総理(財務・金融大臣)の母。


皆川 義孝 巡査

(みながわ よしたか)


茨城県出身。1927年(昭和2年)警視庁巡査となり1933年(昭和8年)巣鴨署。1934年(昭和9年)警視庁警務部警衛課勤務となり、2・26事件直前の1936年(昭和11年)2月初め、前任者と交代して牧野伯爵警護担当(牧野礼遇随衛)に発令され、事件に遭遇、殉職した。

享年32歳、妻帯。


河野 壽 陸軍大尉

(こうの ひさし)


1907年(明治41年)佐世保市生まれ。海軍少将河野左金太の3男。熊本県立中学済々黌、熊本陸軍幼年学校を経て1928年(昭和3年)、陸軍士官学校(陸士40期)卒業。

事件当時は所沢陸軍飛行学校の操縦科学生。決起将校の中でも急進派だったが学生の身で部下がなく、襲撃前夜、同志栗原安秀中尉から旧部下や民間人7人を紹介され、それらを率いての行動となった。

事件後、熱海の陸軍衛戍病院で自決。享年28歳、独身。


岩本 亀三

(いわもと かめぞう)


1903年(明治36年)生まれ。当時34歳、湯河原町宮上・岩本屋旅館主人。湯河原町消防団第5分団前分団長。

2・26事件当日、早朝出立の客のために玄関前でハイヤーを待っていたとき光風荘の火災(襲撃隊の放火)に気づき、現場に急行。牧野伯爵を救出するが、その際に小銃弾で左足に貫通銃創を受け、全治1ヶ月の重傷。


森 鈴江

(もり すずえ)


牧野伯爵付き看護婦。31歳。避難中流弾で腕に銃創。


八亀 広蔵

(やかめひろぞう)


伊豆屋旅館主人、消防団員。消火作業中に頭部負傷。


■湯河原襲撃の8人 

(氏名・肩書き・負傷・生死・判決など)


河野 壽 所沢飛行学校・大尉・28歳・独身 右肺部貫通銃創 昭和11年3月6日 自決


水上 源一 民間人・弁理士・27歳・妻、1女   判決・死刑

(昭和11年7月12日 銃殺)


宇治野 時参 歩兵第1連隊・軍曹・24歳   判決・禁錮15年


宮田 晃 予備役歩兵曹長・会社員・27歳 左脛盲管銃創など負傷 判決・禁錮15年


中島 清治 予備役歩兵曹長・28歳   判決・禁錮15年


黒田 昶  予備役歩兵上等兵・25歳   判決・禁錮15年


黒澤 鶴一 歩兵第1連隊・一等兵・21歳   判決・禁錮15年


綿引 正三 民間人・無職・22歳   判決・禁錮15年


【協力者】

渋川 善助 民間人・陸軍に在籍歴・30歳   判決・死刑

(昭和11年7月12日 銃殺)


事件前日まで数日、湯河原伊藤屋本館に妻絹子と逗留して牧野伯爵の動静を監視。

前日に指揮官河野大尉と合流、最終確認の上帰京。大尉は翌朝部下とともに決行。

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