走る遍路 高野山無量光院

 走る遍路

記憶



難波からは南海線に乗って九度山へ向かった。


僕は、四国を出てからも白装束だった。大阪の人には異様な姿に映ったに違いない。だが、白装束を着ていることで面白い出会いもあった。一目で僕のことをお遍路の人だと分かったのだろう、電車の中ではかつて三回歩きお遍路をしたという中年の男性から声をかけられ、ずっとその人と話して過ごした。


また橋本駅から乗って来た若い女性からも「お遍路さんですか」と尋ねられ、彼女も家族と「区切り打ち」で四国を回っているのだといっていた。本州に入っても尚、同じ電車の同じ車両で、お遍路の縁でこんな人たちに出会うのである。


中年の男性には下車するときに千円を、そしてこの女性からはお菓子のお接待を頂いた。 九度山に着いたのは九時十五分頃。


僕は、慈尊院をお参りし、納経をしてもらった。

ここから高野山までは約二十キロの道のりである。これが今回の巡礼のラストランである。


 前半の登りが少々辛いが、途中からはなだらかで、道中静かな環境の中歩くことが出来た。荷物が軽くなった僕にとっては、この二十キロの山道も散歩をするような気軽い登山のように感じた。


四国一周約1400km以上の山野を10キロ程あるバックパックを背負い歩き通したことで、ものすごく足腰が鍛えられていたのだ。


 途中何人かの登山客やお遍路とすれ違った。そして、袈裟を着て編み笠を被り、錫杖をついている本物のお坊さんとそれに付き従う信者の集団などもいた。多くの人が、高野山へ行くのにこの道を通るのだと知った。 いよいよ高野山の山門も近づいて来た。もうこれで歩きの巡礼は終わりかと思うと心寂しいものがあった。高野山からは熊野の方まで歩いて行くこともできるらしいので、このまま修験道の古代の信仰の中心である熊野まで歩いていくのも悪くなさそうな気はした。だがやはり高野山を参ることで旅の一区切りとしたい。そして、この素晴らしかった旅を、一度故郷に帰ってじっくりと振り返り、今後どうやって生きていくのか考えたいと思った。


色々と考えながら歩いていると、気付いたら目の前に巨大な山門が現れた。とうとう高野山までやって来たのである。 赤い威厳のある山門を私は見上げた。無事にここまで歩けたことに感謝し山門の前で自然と手を合わせた。そして、「同行二人」とここまで導いてくれた弘法大師や、四国でお世話になった人たち、お接待をしてくれた人たち、そして巡礼を励ましてくれた家族や親戚や祖父母にまでお礼を言いたくなるような気持ちになった。 山門をくぐり、高野山の町に足を踏み入れた。四国を回る前はただの歴史の教科書に現れる一つの史跡にすぎないと思っていたところだったが、今はもはや聖地のように感じてしまうのであった。もう時間は午後の三時であった。


僕はまずは旅の疲れをとって、弘法大師のいる奥の院や高野山真言宗の総本山・金剛峰寺へは次の日にお参りしようと思い、一番札所の尼さんが紹介してくれた無量光院へと向かった。 無量光院では、一番札所の尼さんの紹介で来たというと話しはわかっていたようで、中へ案内してもらい、半額の値段で宿泊させてくれた。


無量光院の「無量光」とは、阿弥陀如来の別名「無量光仏」からきている。

「阿弥陀」とはサンスクリット語「アミターバ」の音写であり、サンスクリット語のアミターバには「計り知れない光を持つ者」という意味がある。なので阿弥陀仏を「無量光仏」ともいうのだ。本尊は阿弥陀如来であった。戌年である人の守り本尊は阿弥陀如来である。


最後、僕の守り本尊であるお寺に泊まることができたのも不思議な縁があるようにも思えた。夕方の勤行にも参加出来た。僕は白装束のまま参加し、観音経や光明真言、その他諸仏の真言などを聴いた。 


高野山の町へ出て入った本屋では、様々な仏教書を目の当たりにし、これらを片っ端から読んでもっと勉強したいという衝動に駆られた。知識があったら、この旅はもっと素晴らしいものになっていただろう。


 夜は精進料理を頂いた。まだあどけない顔の修行僧が料理を運んでくれ、四国遍路中では食べたことがないような上品な料理がでてきた。今まで体力を維持する為に量だけは沢山食べていたのだが、ここの精進料理の量では少し物足りなく、夜はずっと腹が減っていた。


夜は清潔な畳の部屋で、これまでの旅の疲れをゆっくりと癒し、明日の最後のお参りに備え寝たのだった。

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