太宰治(津田修治)と小山初代

■太宰と初代。1932年(昭和7年)夏。静岡県静浦村の坂部家(太宰の世話人・北芳四郎の親戚)にて。



小山初代
(1912~1944)は、太宰の最初の奥さんです。婚姻届は提出していなかったため"内縁の妻"ということになります。

 初代は、1921年(大正10年)小学校3年生の時に、母・キミと一緒に芸妓げいぎ置屋「野沢屋」に住み込むようになります。その後、紅子べにこという名前で芸妓をはじめた1927年(昭和2年)の秋頃、弘前から青森に遊びに来ていた、官立弘前高等学校文科一年の太宰と知り合います。太宰は、青森市浜町二丁目の小料理屋「おもたか」や大町二丁目の洋食亭「中央亭」で遊びましたが、その席に呼ぶ芸妓の中で、やって来る回数の多かった紅子(初代)と馴染みになっていきました。




 太宰治(津田修治)と小山初代との関係は、太宰が弘前高校を卒業するまで続きましたが、その間に太宰は、初代に自分との結婚に期待を持たせるような話もしていたようです。

 弘前高校を卒業した太宰は、1930年(昭和5年)4月、東京帝国大学仏文科へ入学するために上京しますが、その後も、夏休みの帰省中に紅子を呼んだりと、関係は続きます。
 そして、ついに太宰は、同年9月30日に「玉屋」(1927年(昭和2年)に「野沢屋」が開業した料亭)を出奔しゅっぽんして上京することを指示しました。初代はすでに準備していた着物などを太宰の友人の東京の下宿に送り、指示通り同日の夜行列車で東京へ向かいます。 翌日午後に赤羽駅に着いた初代は、その日の夜に太宰が用意した本所区(現在の墨田区)東駒形の隠れ家(大工の棟梁の2階)に入りました。

 11月9日。太宰の長兄・津島文治が上京して太宰と会談。分家除籍を条件に初代との結婚を許すこととし(第一次覚書)、落籍のために初代を伴い帰省します。太宰には、芸妓を囲うことで文士の真似事をしてみたかった、という思いもあり、本気で結婚まで考えていたかは分かりませんが、文治はこの件を利用して、太宰の左翼運動への参加を絶とうという狙いもありました。
 しかし、第一次覚書の通りに11月19日付で太宰の分家除籍が成され、その謄本を見た太宰は、それを義絶勘当、家から追放されたと捉えて、ひどく絶望。そんな時期に銀座のカフェー「ホリウッド」で女給をしていた田部たなべあつみ(1912~1930)と知り合います。

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■田部あつみ

 郷里では、文治が11月24日に小山家と結納を交わしていましたが、自暴自棄になっていた太宰は、11月28日深夜に田辺と鎌倉の小動崎こゆるぎさきでカルモチンを嚥下えんげして心中を図り、田辺は絶命。太宰は自殺幇助ほうじょ罪に問われるも、起訴猶予となります。
 この後、故郷の南津軽郡碇ヶ関温泉での療養を経て、12月下旬に初代と仮祝言。冒頭でご紹介した、文治と「第二次覚書」を交わした後に、上京。太宰と初代の新婚生活がスタートとなりました。

 最後に、山内祥史太宰治の年譜』から、初代上京後の様子について引用して紹介したいと思います。

 しばら荏原郡えばらぐん大崎町下大崎の北芳四郎宅に住んだが、その後、神田区岩本町のアパートに移転した。神田駅近くで、「室は入口に近い階下の二間続きで狭」かったという。初代は、彼を「おちゃ」と呼び、彼は初代を「はっこ」と呼んだが、のち同郷でない友人の前では「はちよ」とも言ったという。「おちゃ」とは、津軽では「お爺さんと呼ばれる前の年令、五十代位の人を呼ぶ名である」という。上京後間もなく、初代は、魚河岸で働いていた弟小山誠一を呼び、彼に引き合せた。そのあと小山誠一は、「ほとんど毎週のように訪れたものだ」という。やがて初代は、母キミの弟吉沢祐五郎(通称、祐)にも引き合わせて、交友がはじまった。京橋区新富町三丁目の相馬アパートの吉沢祐五郎宅に、「親戚の学生や郷里の学友を代る代る連れて」訪れるようになったという。

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