四国霊場を知るには、うってつけの本だ。『四国辺土』。

 四国霊場を知るには、うってつけの本だ。『四国辺土』。


そもそも四国遍路とは、香川県善通寺で生まれた弘法大師=空海によって開かれたといわれる、修験の道のりだ。空海の修行した足跡を辿って巡礼することが、修行の一環として室町時代に庶民に広がり、江戸時代に現在の形として確立されたという。(本書P.16に詳しい記載あり。)

信仰心や志をもって八十八ヶ所を巡る人がいる一方で、“路上生活者”として各地をめぐる者もいる。乞食やホームレスを意味する言葉として、かつて四国ではそのような人たちのことを「辺土(へんど)」と呼んだ。

「へんど」は、昭和30年(1955)頃まで多く見られたようだが、社会保障の拡充によって、今ではほとんど姿を消している。

「へんど」という呼称には蔑みのニュアンスがある。現代的な、きれいな格好をしたお遍路さんのイメージとは異なり、それはある種の「逸脱者」、「いろいろな事情から」、一般社会を飛び出して遍路になった人のことだ。草遍路という呼称には趣があるが、プロ遍路とか職業遍路という呼び方はちょっとユーモラスだ。

ところで、「へんど」は蔑称だが、

その一方で、八八ヵ所を経文唱えて回る遍路は、ときに畏敬と畏怖の目で見られた。死者を弔い、己の業や業病にあらがいながら歩きつづける遍路は呪いの言葉を知っていると信じられ、弘法大師空海の仮の姿と崇められることもあった。

いわゆる聖と賤を同時にそなえる存在で、これは一見すると矛盾しているようだが、表があれば裏があるという意味では、べつにおかしなことではなかった。それは矛盾というよりも、むしろ聖と賤の両極をもつ「完全体」ともいえる。

とはいえ全ての草遍路の存在が、弘法大師の化身にまで昇華されているわけではない。

上原善広「四国辺土 幻の草遍路と路地巡礼」P.19

彼らは土地の人たちにとって、「聖なる存在」であり、「賤なる存在」でもあった。

近年、話題になったのは、「幸月事件」だ。

いわゆる「キャラ立ち」のする、幸月と名乗る”人気者”の遍路(へんど)が、NHKのテレビ取材を受けたことがきっかけで、指名手配犯であることが発覚、逮捕に至ったという事件だ。

遍路道のスターは、一人の殺人未遂犯でもあった。6年間の“へんど生活”のあと、6年間の獄中生活を、幸月は送った。


四国の路地にはいろいろな「物語」がある。一人の人の生涯に光と影があるように、遍路道にも日の当たる道があれば薄暗い危険な道もある。どんな人生も一筋縄ではいかない。

四国遍路はその人生の本質を教えてくれる。

険しい山道に白装束の人の絶えない理由が、この歳になってようやくわかった気がする。

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