ただ優しさの湯
「ただ優しさの湯」—
雨がぱらつく午後、僕は峠を越えて小さな里にたどり着いた。
脚は棒、背中は汗と泥で重く、心も沈みがちだった。
「こんな日に限って、茶屋も何もない…」
坂の途中で雨宿りできそうな民家を見つけた。門先には「お遍路さん、どうぞ」と書かれた小さな札が揺れている。
おそるおそる戸口に立つと、中から年配の女性が顔を出した。
「まあまあ、濡れてしまったねぇ。入って温まっていきなさい」
囲炉裏の火がありがたかった。彼女はタオルと湯を差し出し、梅干し入りのおにぎりまで握ってくれた。
名前も訊かず、見返りも求めず、ただ、そこにある温かさ。
「こういうの…なんて言ったらいいんだろう」
僕は、思わず涙をこぼした。
女主人はそれを見て、ただ微笑んだだけだった。
「言葉なんて、いらないよ。あなたが歩いてるだけで、じゅうぶん」
—
その夜、僕は日記にこう書いた。
> お接待 ただ優しさが 沁みる湯
名も知らぬ人のぬくもりが
この旅のいちばんのごちそうだ
お遍路とお接待 俳句五選
1. 雨宿り ただ茶をくれる 優しさよ
――民家の軒先で、言葉少なに差し出されたお茶。
2. 遍路来て 名も告げぬまま 宿を出る
――名前も訊かず、ただ休ませてくれた人の家。
3. 湯のぬくみ 知らぬ者にも 染みわたり
――接待の風呂に身も心もほどけてゆく。
4. おにぎりの 塩味深し 接待所
――素朴な味が、涙を誘う。
5. 風の音 黙って茶出す 手が語る
――言葉ではなく、所作のすべてが優しさだった。
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