四国霊場の観光化とは何か


四国霊場の観光化とは何か


かつて、遍路は「修行」であり、「祈りの旅」でした。荒れた山道、簡素な宿、僧侶の教えに耳を傾けながら、自分と向き合い、罪を悔い、祈る行程。それが、近年では──


各札所が観光バス対応の「観光地化」


売店と納経所が一体となった「物販拠点」


遍路道の舗装、看板の充実、「便利で快適な遍路道」



それは確かに「誰でも歩ける遍路道」への配慮でもありますが、その反面、「信仰のにおい」が薄れていっているという批判もあります。



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信仰と観光のすれ違い


観光遍路は、朱印を集め、記念写真を撮る。悪いことではありません。しかし、納経帳が「スタンプラリー」と化し、「功徳」ではなく「コレクション」になってしまえば、そこに修行の姿は見えません。



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草遍路のまなざしから


草遍路──札所にとらわれず、草の中を歩き、納経帳も持たず、ただ祈り、ただ歩く。彼らの姿は、現代の「観光化された遍路」への批判であり、静かな問いかけでもあります。


> 観光か 信仰か この道に 己を問うて 草の露踏む



憂いの声が示すもの


四国霊場の観光化を憂うということは、ただ古きよき時代に固執することではなく、**「信仰とは何か」「修行とは何か」**を今一度、問うことです。


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