三角寺越え、そして雲辺寺へ

「三角寺越え、そして雲辺寺へ」



 朝の空気がすでに重たかった。

 まだ午前六時、だというのに、空は鈍く輝き始め、風はまったくなかった。


 僕は、65番札所・三角寺を発ち、雲辺寺を目指していた。


 背中のザックは汗でじっとりと重く、足の裏はすでに悲鳴を上げていた。

 昨夜は無料で泊めてくれた「民宿岡田」の軒先で、ペットボトルに水を詰め、握り飯一つを手に握った。


「今日は……山越えやな」


 誰にも聞かれぬ声を、己に投げる。

 この区間――三角寺から雲辺寺――は、歩き遍路のなかでも屈指の難所として知られていた。


 約30km。

 標高差約900m。

 コンビニなし、自販機もほぼなし。日陰少なし。人の気配は、ゼロ。



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 日が昇るにつれ、アスファルトの照り返しが地面から幸月を焼き始める。

 やがてコンクリートの道は砂利へ、そして山道へと変わっていく。


 蝉が狂ったように鳴いている。

 ジジジ……ジジジ……

 熱と音と、沈黙の森に包まれて、幸月は黙々と歩いた。



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 正午を回る頃、あたりの空気は煮え立つような熱をまといはじめる。

 汗は目に入り、Tシャツは身体に張りつき、ザックの紐は肩の肉に食い込む。


 「水……なくなったか」


 空のペットボトルを見つめ、深く息をついた。

 喉が痛む。

 草遍路として、誰にも頼らず歩くと決めたが、この日ばかりは――後悔が胸を刺す。


 山中の古びた遍路小屋を見つけて倒れこむ。

 誰もいない。

 蚊とハエがまとわりつく。

 目を閉じると、意識がふっと、薄くなった。


 その時だった。

 カサリ……と小屋の脇の茂みから、ひとりの老婆が現れた。


「……あんた、歩き遍路かいな」


 汗だくで身なりもボロボロの幸月を見て、老婆は笑った。


「これ、お接待や。ちょっとだけやけど」


 差し出されたのは、冷たい麦茶と、塩のきいたおにぎりだった。

 僕は、声にならぬ感謝をこめて深々と頭を下げた。



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 夕暮れ。

 ついに雲辺寺の山道に入る。


 石段は果てしなく続く。

 雲辺寺の名前どおり、霧が立ちこめてきた。


 最後の力を振り絞って山門をくぐったとき、僕の足は止まった。


 寺は静まり返っていた。

 納経所のガラス戸には、**「本日は納経終了しました」**の貼り紙。


 時刻は午後五時五分。

 五分遅れ。たったそれだけ。


「……そうか」


 涙も出なかった。

 僕は納経帳を持たぬ草遍路。ただ納札を箱に入れ、手を合わせるだけ。


 それでも、その五分は、あまりに大きかった。



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 雲が風に吹かれ、空が赤く染まり始めた。

 僕は石段に座り、濡れたTシャツを脱いで絞った。


 心に残ったのは、老婆の麦茶の冷たさと、静かな悔しさだけだった。


 だが、歩いた。

 自分の足でここまで来たという事実が、確かにそこにあった。


 僕はは、夜の帳が降りる前に、そっと山を下りはじめた。


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