生きがいを求めて、シンプルにものごとを考える
生きがいを求めて、シンプルにものごとを考える
朝の空は、淡い水色に薄い雲が漂い、まるで誰かが水彩絵の具をそっと垂らしたようだった。熱海の海沿いの道を歩きながら、僕はそんなことを考えていた。潮の香りが鼻をつき、遠くで波が打ち寄せる音が響く。夏の終わり、秋の気配がそっと忍び寄るこの季節、生きがいとは何か、なんてことを考えるにはちょうどいい。
生きがい。それは、どこか遠くにあるものではなく、むしろ足元の砂粒や、朝のコーヒーの香り、ページをめくる瞬間の紙の感触に宿っているのかもしれない。村上春樹の小説の主人公なら、きっとそんなことを思いながら、ジャズのレコードをかけ、ウィスキーをグラスに注ぐのだろう。だが、僕にはレコードもウィスキーもない。ただ、リュックに古びたノートとペン、そして少しの好奇心があるだけだ。
#### 熱海、波のささやき
熱海の海沿いの道は、どこか懐かしい雰囲気を漂わせている。観光客の賑わいから少し離れた小さな路地に入ると、古い旅館や民家の木戸が静かに佇んでいる。僕は海の見える小さな喫茶店に入った。窓際の席からは、青い海と空が一望できる。カウンターには、年季の入ったコーヒーミルと、なぜか小さな亀の置物が置かれている。マスターは無口で、ただ黙々とコーヒーを淹れている。その動作には、無駄がない。シンプルだ。
「生きがいって、なんだと思いますか?」
ふと思いついて、マスターに尋ねてみた。彼は少し目を細め、コーヒーを淹れる手を止めることなく、こう答えた。
「毎日、こうやって海を見て、コーヒーを淹れる。誰かがここで一息ついて、笑顔になってくれる。それでいいんじゃないか。」
その言葉は、まるで村上春樹の小説の脇役がぽつりと言う台詞のようだった。深い意味があるようで、実はとても単純。僕はノートにその言葉を書き留め、コーヒーを一口飲んだ。苦味とほのかな塩気のようなものが混ざり合い、どこかこの海の町らしい味がした。
#### 海辺の思索
数日後、僕は熱海の砂浜に立っていた。波が寄せては返す音が、まるで世界の呼吸のようだ。砂浜には、犬を散歩させる地元の老人や、サーフボードを抱えた若者がちらほらいる。僕は靴を脱ぎ、裸足で砂を踏みしめた。冷たくて、柔らかくて、どこか頼りない感触。生きがいとは、こんな風に足元で感じるものかもしれない。
村上春樹の小説なら、ここで主人公は何か哲学的なことを考えるだろう。たとえば、人生とは波のようなもので、寄せては返す、繰り返すだけ繰り返して、やがて消える。でも、消える前に何か小さな跡を残す。それが生きがいなのかもしれない。僕はそんなことを考えながら、ポケットから小さな貝殻を拾い上げた。白くて、欠けた部分が少しだけある。完璧じゃないけど、それでいい。
#### シンプルであること
旅を続けながら、僕は気づいた。生きがいとは、大きな目標や派手な成功だけではないのかもしれない。村上春樹の物語に出てくる人々は、たいてい何か欠けている。完璧じゃないからこそ、彼らは歩き続ける。そして、その歩みの中で、ささやかな喜びや意味を見つける。
東京に戻った僕は、いつもの部屋でノートを開いた。熱海のマスターの言葉、波の音、拾った貝殻の感触。それらが、僕の生きがいの一部なのかもしれない。シンプルにものごとを考える。余計なものをそぎ落とし、ただそこにあるものを感じる。それが、僕の旅の収穫だった。
窓の外では、夕暮れの空がオレンジ色に染まっている。どこかで猫が鳴き、遠くで電車の音がする。僕はペンを手に取り、こう書いた。
「生きがいは、探すものじゃない。気づくものだ。」
そして、コーヒーを淹れようとキッチンに向かった。シンプルに、ただそれだけでいい。



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