彼女と別れてから、熱海へやってきた。

 



彼女と別れてから、熱海へやってきた。駅前は観光客で賑わっていたが、俺の興味をひくものは何もない。ただ漠然と、熱海なら、あるいは、と思う気持ちがあっただけだ。

借りた部屋は坂道を登った古いマンションの一室で、窓からは熱海の海が一望できた。毎朝、目が覚めると海が見えた。穏やかな日もあれば、灰色の雲が垂れ込めて鉛色になる日もあった。まるで俺の心模様を映し出しているようだった。

熱海に来てから、日課になったことがある。海沿いの道を走ることだ。朝の涼しい空気の中、潮の匂いを肺いっぱいに吸い込みながら、ただひたすらに足を動かす。規則正しく、機械的に。そうすることでしか、頭の中に渦巻く余計な思考を消す方法を知らなかった。

海を眺めながら走っていると、時折、彼女の幻影を見る。海に浮かぶヨットを指差して笑う彼女。熱い砂浜の上で、サンダルを脱いで裸足になる彼女。そんな記憶が、波のように何度も寄せては返す。

熱海は、海だけではない。坂道を上ると、古びた温泉旅館や土産物屋が並んでいる。裏道に入れば、猫が昼寝をしていて、どこからか味噌汁の匂いが漂ってくる。そして、小さな商店の軒先で、老人が新聞を読んでいる。俺はそういう、ありふれた日常の断片に惹かれた。

彼女と過ごした日々に、特別なことは何もない。まるでどこにでも転がっている小石のような、ありふれた日々だった。だけど、そのありふれた日々こそが、今の俺にとっては、まるで宝石のように輝いて見えるのだ。

彼女はもういない。そして、熱海に住む俺も、ただの観測者に過ぎない。それでも俺は、今日も熱海の海沿いを走る。彼女の幻影を追いかけるように。いつか、何も感じなくなるまで、ただひたすらに。



俺は彼女を、まるで遠い星の光のように眺めている。

熱海の坂道は、まるで俺の人生のようだ。登っても登っても、また次の坂が現れる。彼女といた頃、俺たちはこの坂道を二人で駆け上がった。息を切らしながら、頂上までたどり着くと、そこにはいつも、想像していたよりもずっと広い景色が広がっていた。

だが、今は一人だ。坂を上る足取りは重く、視線は地面に落ちたまま。それでも、俺は歩みを止めない。坂道の途中で、古い喫茶店を見つける。木製の扉を開けると、そこには時間が止まったような空間が広がっていた。マスターは無愛想な顔で新聞を読んでいる。俺はカウンターに座り、ブレンドコーヒーを注文した。カップから立ち上る湯気が、俺の心を少しだけ温めてくれる。

「お客さん、観光かい?」

マスターが新聞から顔を上げて、初めて俺に話しかけた。

「いえ、ここに住んでます」

そう答えると、マスターは何も言わずに微笑んだ。その微笑みは、まるで、俺の心の内を見透かしているようだった。

熱海の海は、俺の過去を洗い流してくれるわけではない。むしろ、過去の記憶をより鮮明に、より強く、俺の心に刻みつける。

それでも、俺は走り続ける。海沿いの道を。坂道を。

いつか、走り続けた先で、この海の向こうに、新しい景色が広がることを信じて。


坂道の途中で見つけた喫茶店には、毎日のように通うようになった。マスターは相変わらず無口だったが、コーヒーの味は日を追うごとに俺の心に染み渡っていくようだった。

ある朝、いつものように海沿いを走っていると、水平線が白み始めていることに気がついた。走るのをやめて、ただ、その光景を眺める。海と空の境界線が、ゆっくりと、しかし確実に、オレンジ色に染まっていく。その光のグラデーションは、まるで、何かの始まりを告げているようだった。

その時、彼女と出会った。

彼女は、俺のすぐそばに立って、同じように日の出を眺めていた。潮風に揺れる、長い髪。そして、その横顔は、まるで朝焼けのように美しかった。

「綺麗ですね」

彼女が、小さな声でつぶやいた。

「ええ」

俺は、それしか言えなかった。

彼女は微笑んで、

「毎日、ここに日の出を見に来ているんです。新しい一日が始まるみたいで、なんだか、勇気がもらえる気がして」

そう言って、彼女は俺に背を向けた。

「では、また」

そう言って、彼女は去っていった。

俺は、その場に立ち尽くしたままだった。彼女の言葉が、そして、その声が、俺の心の中に、新しい波紋を広げていくようだった。

その日以来、俺は毎朝、彼女の姿を探すようになった。

しかし、彼女は、まるで夢のように、もう俺の前に現れることはなかった。

数週間後、俺は再び、日の出の海沿いを走っていた。

その日の空は、いつも以上に美しく、まるで絵画のようだった。

その時、俺の目から、涙が溢れ出した。

それは、悲しみの涙ではなかった。

それは、別れの涙でもなかった。

それは、まるで、夜が明けるように、過去の自分に別れを告げ、新しい自分に出会うための涙だった。

俺は、走り続けた。

新しい一日が、まるで日の出のように、今、始まろうとしていた。

そして、その光の中に、俺は、新しい自分を見つけることができた。




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