宮沢賢治:雨にも負けず
日はこんな詩が一番合っているような気がする。
私の一番大好きな真珠の如き座右の言葉である。
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宮沢賢治:雨にも負けず
雨にも負けず、風にも負けず
雪にも、夏の暑さにも負けぬ、丈夫な体をもち
慾はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と、味噌と、少しの野菜を食べ
あらゆることを、自分を勘定に入れずによく見聞きし、分かり、そして忘れず
野原の、松の林の陰の、小さな、萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば、行って看病してやり
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば、行って、怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い
日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き
みんなに、木偶坊(でくのぼう)と呼ばれ
褒(ほ)められもせず、苦にもされず
そういうものに、私はなりたい。
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今日の夕方、とんでもない奴と付き合う羽目になった。
彼の名前は、”台風15号”。
彼は無遠慮に、首都圏に接近してそ知らぬ顔で去っていった。
先の震災が如きに、鉄道交通網に大きな打撃を与えて、果てはすべての鉄道が運転見合わせの憂き目にあってしまった。
こんな時は、無理をせず会社に泊まるのがベストチョイスであるのだが、その選択肢は”帰宅”と決断してしまった。
後から後悔していまったのだが、、、。
電車が運休になっている以上、自分の脚で帰宅しなければならない。
台風来襲のため、いつもの傘は無理と判断。
ゴアテックスの”レインウエア上下”と着用して、赤坂から自宅まで約40キロを走破した。
強風と強雨を全身に受けて、
よたよたとしながら、ただ今・・・・・午前様にて帰宅。
ふと~出た言葉・・・全く、褒められもせず、苦にもされず
そういうものに、私はなりたい。
★追記
この詩の最後に書かれている そういう者に実在のモデルが居たことを、ご存知でしたか?
その人の名は斎藤宗次郎といいます。
宗次郎は1877年岩手県花巻市でお寺の子供に生まれました。
彼は小学校の教師になり、ふとしたきっかけで、聖書を読むようになりました。
そして1900年冬洗礼を受け、花巻市ではじめてのクリスチャンになりました。
この時代、キリスト教がまだ「耶蘇教」(やそ)となどと呼ばれ
人々から迫害を受けていた頃でしたので、クリスチャンになった日から親から勘当されました。
町を歩いていると「やそ」「ヤソ」とあざけられ、何度も石を投げられたそうです。
彼はいわれのない中傷を何度も受け、ついには小学校の教師を辞めるはめになります。
また、宗次郎の長女はある日「ヤソの子供」と言われ腹を蹴られ、
腹膜炎を起こし、数日後9歳という若さで天国に行きました。
それでも、彼は信仰を捨てずに、そこに生き続けたのです。
教師を辞めることになった彼は朝の三時から新聞配達をして生活をするようになりました。
重労働の中、肺結核を患い何度か血を吐きながら、それでも毎朝三時に起きて、
夜遅くまで働き、聖書を読み、祈ってから寝るという生活を続けました。
不思議な事に、このような激しい生活が二十年も続いたにもかかわらず、
彼の体は支えられていました。
また、あのように自分の娘を失ったのにかかわらず、冬に雪が積もると、
彼は小学校への通路を雪かきをして道を作りました。
彼は雨の日も、風の日も雪の日も休む事なく、地域の人々のために働き続けました。
また、新聞配達の帰りには、病人を見舞い、励まし、慰めました。
彼の生き方は、第一に信仰、第二に周りの人々、最後に自分という優先順位をつけていたのです。
やがて彼は、東京に引越しする事になりました。
その彼を見送るために迫害していたはずの町長や、学校の先生や、たくさんの生徒、
また、町中の人々が集まりました。
人々は宗次郎がいつもしていた事を見て、感謝をしにやってきたのでした。
その中人々の中に宮沢賢治もいて「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の詩をつくったのでした。
実は私はクリスチャンです。生まれも育ちも"長崎”
そうです!私の故郷は、あの隠れキリスタンの地です。
I never feel more alive than when I'm in great pain, struggling to persevere against insurmountable odds and untold adversity
私の一番大好きな真珠の如き座右の言葉である。
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宮沢賢治:雨にも負けず
雨にも負けず、風にも負けず
雪にも、夏の暑さにも負けぬ、丈夫な体をもち
慾はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と、味噌と、少しの野菜を食べ
あらゆることを、自分を勘定に入れずによく見聞きし、分かり、そして忘れず
野原の、松の林の陰の、小さな、萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば、行って看病してやり
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば、行って、怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い
日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き
みんなに、木偶坊(でくのぼう)と呼ばれ
褒(ほ)められもせず、苦にもされず
そういうものに、私はなりたい。
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今日の夕方、とんでもない奴と付き合う羽目になった。
彼の名前は、”台風15号”。
彼は無遠慮に、首都圏に接近してそ知らぬ顔で去っていった。
先の震災が如きに、鉄道交通網に大きな打撃を与えて、果てはすべての鉄道が運転見合わせの憂き目にあってしまった。
こんな時は、無理をせず会社に泊まるのがベストチョイスであるのだが、その選択肢は”帰宅”と決断してしまった。
後から後悔していまったのだが、、、。
電車が運休になっている以上、自分の脚で帰宅しなければならない。
台風来襲のため、いつもの傘は無理と判断。
ゴアテックスの”レインウエア上下”と着用して、赤坂から自宅まで約40キロを走破した。
強風と強雨を全身に受けて、
よたよたとしながら、ただ今・・・・・午前様にて帰宅。
ふと~出た言葉・・・全く、褒められもせず、苦にもされず
そういうものに、私はなりたい。
★追記
この詩の最後に書かれている そういう者に実在のモデルが居たことを、ご存知でしたか?
その人の名は斎藤宗次郎といいます。
宗次郎は1877年岩手県花巻市でお寺の子供に生まれました。
彼は小学校の教師になり、ふとしたきっかけで、聖書を読むようになりました。
そして1900年冬洗礼を受け、花巻市ではじめてのクリスチャンになりました。
この時代、キリスト教がまだ「耶蘇教」(やそ)となどと呼ばれ
人々から迫害を受けていた頃でしたので、クリスチャンになった日から親から勘当されました。
町を歩いていると「やそ」「ヤソ」とあざけられ、何度も石を投げられたそうです。
彼はいわれのない中傷を何度も受け、ついには小学校の教師を辞めるはめになります。
また、宗次郎の長女はある日「ヤソの子供」と言われ腹を蹴られ、
腹膜炎を起こし、数日後9歳という若さで天国に行きました。
それでも、彼は信仰を捨てずに、そこに生き続けたのです。
教師を辞めることになった彼は朝の三時から新聞配達をして生活をするようになりました。
重労働の中、肺結核を患い何度か血を吐きながら、それでも毎朝三時に起きて、
夜遅くまで働き、聖書を読み、祈ってから寝るという生活を続けました。
不思議な事に、このような激しい生活が二十年も続いたにもかかわらず、
彼の体は支えられていました。
また、あのように自分の娘を失ったのにかかわらず、冬に雪が積もると、
彼は小学校への通路を雪かきをして道を作りました。
彼は雨の日も、風の日も雪の日も休む事なく、地域の人々のために働き続けました。
また、新聞配達の帰りには、病人を見舞い、励まし、慰めました。
彼の生き方は、第一に信仰、第二に周りの人々、最後に自分という優先順位をつけていたのです。
やがて彼は、東京に引越しする事になりました。
その彼を見送るために迫害していたはずの町長や、学校の先生や、たくさんの生徒、
また、町中の人々が集まりました。
人々は宗次郎がいつもしていた事を見て、感謝をしにやってきたのでした。
その中人々の中に宮沢賢治もいて「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の詩をつくったのでした。
実は私はクリスチャンです。生まれも育ちも"長崎”
そうです!私の故郷は、あの隠れキリスタンの地です。
I never feel more alive than when I'm in great pain, struggling to persevere against insurmountable odds and untold adversity
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