『災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候』


災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候


昨夜は、徹夜の仕事で帰宅できなかった。

どうも疲れも蓄積してきたようで、あまり体調が良くない。

こんなときは、気持ちもブルーな状態でなかなか抜け出せない自分がいる。

そんな時は、いろいろな書籍を読むことに耽る。

特に精神的な悟りの世界?が僕を夢中にする。

その一人・・・良寛さんが今の清涼剤です。



17~18世紀に越後で生きた名僧良寛が、文政の大地震で被災者に出した文書の一節です。

一見、乱暴な文章を書いたのは、良寛晩年のこと。
良寛は、決して“災難にあえ!死ね!“などとは言っていない。
死がくるときには平然と死を受け入れよ、という悟りの境地から出た言葉なのです。

今も昔も、この瞬間まで災害や死は消滅していない。
聞き直って、力強く生きる・・・・強いメッセージなのです。

災難に遭ってしまうことはあります。すでに起こってしまった災難を取り消すことはできません。

災難にあわてふためいたりしてしまうと、過った対処をして災難を大きくしてしまうかもしれません。

少なくとも心の中では災難が大きくなってしまうでしょう。起こってしまった不幸には、「こういう時もある」と受け入れ、少しでも落ちついて対処できたほうがいいのではないでしょうか。



良寛は、出雲の庄屋の長男として生まれたが、父親は文人肌の人物らしい。
家業を捨て、晩年は京都で不幸な死を迎える。
良家の秀才という生い立ちでありながら、生家が没落した後は18歳で禅寺に入門する。
そこで、備中の大寺の和尚に拾われて、禅僧としての道を進むことになる。

さらに、道元禅師との運命的な出会いとなる。
俗化した葬式仏教に嫌気が差して、宗門組織から離れ、放浪の旅に出る。
良寛33歳とき、“運に任せ、縁に任せ、天真に任せる”と唱える。
運とは偶然ではなく、天地の運行。縁とは宇宙の法則である。

天真とは、すべてを捨て、愚かなになり切ったとき、自然が明らかにしてくれる真実を指すらしい。

良寛によれば、慈悲と愛情が最大の天真を現わす力だと信じて、40歳から約20年近くを国上山の五合庵で独居の修行の日々を送る。

現生で人を評価する尺度とされる、地位、財産、名誉などは、何と20歳で出家したときに、すべてを捨て去っている。若くして、欲の無い生き方を貫徹することは、常人にはなかなか真似のできないこと。

現代人で、真っ黒に書き込まれた手帳を見せて、多忙であることを自慢する人がいる。

作家がホテルに缶詰めにされ、それでも仕事がこなせず、ノイローゼになり、やがて死を選ぶ。

たまに時間があっても、テレビをボカンと眺め、月が昇ったことにも気づかない。

仕事や時間に追われる生活に嫌気がさした人は、迷わずに、できれば雪深い真冬に、独りで国上山に登り、五合庵を訪れることをお薦めする。

粗末な部屋の中は、隙間から雪が吹き込み、無一物の生活が想像絶する程にいかに厳しいかを偲ぶことができる。

いまどき、冷暖房や携帯電話のない生活など考えられない。しかし、人間は極限の世界に身を置くことで、精神は神仏の領域に限りなく近づくのではないでしょうか・・・。

“散る桜、残る桜も 散る桜“良寛の辞世の句。悟りを開いた人は、天真のめぐりと一つになる。いたずらに泣き嘆いてはならない。あなたも私も、死ぬまで生きられる。生命ある限り、善根を続けましょう。


そして、僕は最近ですが”携帯電話”を捨ててしまった。
解約してしまったのだ。
利便性は認めるが、果たして本当の意味で人と人を結びつけるツールなのでしょうか?

インターネット全盛のこの世紀においても、誤解と不満が蔓延している。
このネット世界でも、金は使っても人をつなぐものではないらしい。

利便性はいらない・・・最低限の生きる糧があればそれでよいのでは?

幸せはお金では買えなし、人間の欲望を追求しても際限がない。

質素な生活を営むことで、ほんとに必要なものや人間を確認できるはずだと思う。

何も無いことが、幸せでは?  

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