太宰治の三鷹 玉川上水

街を歩くと新緑の匂いがツンとくる季節になると、私はある作家のことを思い出します。太宰治。青森県は金木町出身で津軽屈指の大地主の子息として生まれました。

 太宰治は昭和14年から東京都三鷹市に住み始めました。近くに井の頭公園があり、よく万助橋を渡り通ったものでした。また太宰は玉川上水の流れも気に入っていたらしいです。それから三鷹陸橋からの眺めも・・・


 昭和23年6月13日の深夜、大宰と山崎富栄は互いの体を紐で結んで抱き合い、玉川上水に入水自殺をしました。遺体は19日の早朝、玉川上水を下流(吉祥寺方面)へ下った新橋辺りで、近くにある明星学園の若い教師が2人の遺体を発見しました。太宰の遺体は棺に移され運ばれたそうですが、富栄の遺体は少し離れた道端に昼過ぎまでおかれていたそうです。その後、富栄の父・晴弘が1人で、変わり果てた娘の遺体に出会ったといわれています


玉川上水は「人食い川」と呼ばれていた時期があった。戦後の生活に疲れ果てた人々の自殺名所となっていたからだ。生活苦ではなかったが、太宰治もこの川に食われた一人だった。(04-01-27)
右上の母校正門前で太宰は見つかった
右上の母校正門前で太宰は見つかった   この頃、疎開から帰って再び通学を始めた母校の高等部の門は玉川上水に面していた。小学生の私はこの門の前を通って通学していた。そして、人食い川に食われた人を頻繁に目にしていたのだ。そのうちに、犠牲者を見ても驚かなくなっていた。
  犠牲者を探すとき、都の職員がボートを浮かべ、川に流されないように両岸からロープで支え、火事場のかぎ棒で水中を探すのである。ある時、私は母校の前で探している職員を見つけ、「いつも、あそこで上がるんだよ」と告げた。職員はその場所へかぎ棒を入れたが、すぐに、手応えがあった。母校の前はカーブしていて、引っかかりやすい位置だったのだ。
  そこまでは、いつもの風景であった。ちょっと違ったのは、男と女がひもで結び合い、お互いが離れないようにしていたことだ。男女の情愛の何かを知らない私にとって、この場面はショックだった。これが、後に知られた太宰治とその愛人とは知る由もなかったからだ。
  事件だと知らされたのは翌日の新聞を見た両親の話す言葉を聞いたときだった。月日が経ってもこの事件は風化するどころか、いつまでも語り継がれる出来事と知ったのも、後々のことである。しかし、太宰の情死場所を指摘したことだけは、いつになっても、頭の隅から消えていかない。昭和34年9月、三鷹駅東側の玉川上水に幼い三姉妹が揃って身を投げた。
 理由は両親の不仲によるもの。
 長女かつ(14歳)、次女とも(12歳)、四女せつ(9歳)は映画の帰りに三女を残して姿を消したという。
 遺体は三鷹駅より三キロほど離れたドンドン橋で見つかり、長女の遺体からは次女と連名の遺書が見つかった。

心中した三姉妹

 太宰治が入水自殺した場所も玉川上水であり、三姉妹が身を投げた場所とそう離れていない。

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