日本赤十字社の前身@博愛社

日本赤十字社は、1877年(明治10年)に創立された博愛社がその前身となっています。その後、1886年(明治19年)に日本政府がジュネーブ条約に加入したことに伴って、翌1887年に名称を日本赤十字社と改称しました。

博愛社は、1877年2月に発生した西南戦争の折、佐野常民(さのつねたみ)と大給恒(おぎゅうゆずる)の両元老院議官によって創立された救護団体です。西南戦争では、官軍と薩摩軍の間で激しい戦闘が繰り広げられ、両軍ともに多数の死傷者を出しました。

このとき、この悲惨な状況に対して佐野、大給の2人は、救護団体による戦争、紛争時の傷病者救護の必要性を痛感し、ヨーロッパで行われている赤十字と同様の救護団体をつくろうと思い立ちました。
1877年(明治10年)、佐野、大給両人を発起人として博愛社の規則を定め、政府に対し救護団体「博愛社」の設立を願い出ました。
しかし、この願いは認められませんでした。博愛社の規則第4条にある「敵人ノ傷者ト雖モ救ヒ得ヘキ者ハ之ヲ収ムへシ」とする規定、つまり「敵味方の差別なく救護する」という考え方が理解されなかったからです。

博愛社の設立を急いだ佐野は、征討総督有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)に直接、博愛社設立の趣意書を差し出すことに意を決し、1877年5月、熊本の司令部に願い出ました。有栖川宮熾仁親王は英断をもってこの博愛社の活動を許可されました。
救護活動の許可を得た博愛社の救護員は、直ちに現地に急行し、官薩両軍の傷病者の救護にあたりました。そのかたわら、水俣をはじめ地域的に発生したコレラ流行地にも救護員を派遣して、予防と手当に努めました。
この博愛社の活動は、当時、敵の負傷者まで助けるという考えが理解できなかった人々を驚かせ、人道という精神文化の基礎をわが国に植え付けたのです。

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