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近代韓国史を語る。








近代韓国史

韓国とは?朝鮮とは?
どんな歴史の上で、現代の韓国が存在するのだろ?それを理解するには、韓国の歴史を知らなければなりません。

それも、近代の韓国史を理解することが、現代の韓国を理解する早道だと思います。

特に、韓国の歴史を語る上で、一番理解しやすいのは”李氏朝鮮から現代まで歴史”です。
それ以前の朝鮮半島は、民族移動は激しく、今で言う韓国人とは異質でありました。

よって、まずは李氏朝鮮から韓国の歴史を語りましょう!

高麗国とは

高麗(こうらい)は、918年王建(太祖)が建て、1392年まで続いた朝鮮半島の国。都は開城

元来「高麗」は高句麗の後期における正式な国号であり、当時の日本や中国でも高句麗を「高麗」と称していたため、現代中国では区別のため王氏高麗と呼ぶこともある。
西洋語において朝鮮を表すKoreaCoreeなどの語源となった。
Koreaの語源は、高麗からきています。それまでの朝鮮半島は人の住まない未開地の原野でありました。また、移動民がこの原野を往来し、定住する人々も限られていました。
李成桂登場
太祖 李成桂
































13世紀以来、の属国となっていた高麗は、元の衰退に乗じて独立を図るが、北元の南北対立や倭寇うの襲来によって混乱し、混沌とした政治情勢にありました。
 14世紀後半、数々の武功で名声を確固たるものにした高麗の武将、李成桂1388年、明が進出してきた遼東を攻略するため出兵を命じられ鴨緑江に布陣したが、突如軍を翻してクーデターを起こし(威化島回軍)、高麗の首都開城(開京)を占領、高麗の政権を完全に掌握した。
その背景には、李成桂がもともと反元・親明派であって王命に対する反発があったことに加え、当時行き詰まっていた高麗の政治を改革しようとする新興の儒臣官僚たちの支持がありました。 遼東攻撃を不当とした李成桂は、当時の王(おうぐ)に対してその不当性を主張し、これを廃して昌王を王位につけた。


高麗の政権を掌握した李成桂は、親明政策をとり明の元号を使用、元の胡服を禁止し、明の官服を導入するなど政治制度の改革を始めた。だが、昌王の即位に対しては李成桂の同志でライバルでもあった曺敏修(そうびんしゅ)との対立があり、李成桂は昌王を廃位し、1389年に最後の王である恭譲王を即位させた。

その際、先々代と先代の王と昌王は殺された。家臣の中には李成桂を王位に就けようという動きが有ったが、李成桂はこの時は辞退している。

やがて李成桂を王にしようとの勢力は次第に大きくなり、この勢力に押されて、1392年恭譲王を廃位し、自らが高麗王になった。

高麗王家一族は都を追放され、2年後の1394年に李成桂の命令で処刑された。このとき李成桂は王姓を持つものを皆殺しにしようとしていたため、多くの者が改姓をしたと言われている。
李は高麗王として即位後、明へ権知高麗国事と称して使者を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。

権知高麗国事とは
権知高麗国事(けんちこうらいこくじ)とは、李氏朝鮮初期の国王に授けた封号高麗王代理、あるいは高麗国知事代理を意味する。
李氏朝鮮の初代国王李成桂1392年、明が冊封した高麗王昌王恭譲王を廃位して高麗王位を簒奪した後、権知高麗国事と称して明国へ使者を送り、その地位を認めさせた。
明より王朝交代に伴う国号変更の要請をうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、洪武帝が「国号はどう改めるのか、すみやかに知らせよ」といってきたので、高麗のほうでは「朝鮮」(朝の静けさの国)と「和寧」(平和の国)の二つの候補を準備して洪武帝に選んでもらった。「和寧」は北元の本拠地カラコルムの別名であったので、洪武帝は、むかし前漢武帝にほろぼされた王国の名前である「朝鮮」を選んだ、そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより朝鮮を国号とした。和寧と言うのは李成桂の出身地の名であり、現在では国号の本命ではなかったとの意見が多い。
だが明では、明が冊封した高麗王を廃位して代わりの王を即位させたり、最後には勝手に自ら王に即位した李成桂を快く思わなかったらしく、李成桂を最後まで朝鮮王としては冊封しなかった。
明から朝鮮国王として正式に冊封されたのは、第3代国王である太宗からであった。

 冊封(さくほう)とは


冊封の原義は「冊(文書)を授けて封建する」と言う意味であり、封建とほぼ同義である。
冊封を受けた国の君主は、王や侯といった中国の爵号を授かり、中国皇帝と君臣関係を結ぶ。この冊封によって中国皇帝の(形式的ではあるが)臣下となった君主の国のことを冊封国という。このようにして成立した冊封関係では、一般に冊封国の君主号は一定の土地あるいは民族概念と結びついた「地域名(あるいは民族名)+爵号」という形式をとっており、このことは冊封が封建概念に基づいていることを示しているとともに、これらの君主は冊封された領域内で基本的に自治あるいは自立を認められていたことを示している。したがって冊封関係を結んだからといって冊封国がそのまま中国の領土となったと言う意味ではない。冊封国の君主の臣下たちはあくまで君主の臣下であって、中国皇帝とは関係を持たない。冊封関係はこの意味で外交関係であり、中華帝国を中心に外交秩序を形成するものであった。
冊封国には毎年の朝貢、中国の元号(正朔)を使用することなどが義務付けられ、中国から出兵を命令されることもある。その逆に冊封国が攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることが出来る。

朝貢(ちょうこう)とは

主に前近代の中国を中心とした貿易の形態。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が恩賜を与えるという形式を持って成立する。なお、周辺国が貢物を捧げることを進貢(しんこう)、皇帝がその貢物を受け入れることを入貢(にゅうこう)という。 朝貢それ自体には政治的な臣属という意味はなく、その点で冊封とは区別される。

李芳遠登場
太宋 李芳遠

李成桂は新王朝の基盤を固めるため、八男・李芳碩を跡継ぎにしようと考えていたが、他の王子達がそれを不満とし、王子同士の殺し合いまでに発展した。1398年に起きた第一次王子の乱により跡継ぎ候補であった李芳碩が五男・李芳遠(後の太宗)により殺害され、このとき病床にあった李成桂は、そのショックで次男の李芳果に譲位した。これが第2代定宗である。しかし定宗は実際は李芳遠の傀儡に過ぎず、また他の王子達の不満も解消しないことから1400年には四男・李芳幹により第二次王子の乱が引き起こされる。李成桂はこれによって完全に打ちのめされ、仏門に帰依する事になる。
一方、第二次王子の乱で反対勢力を完全に滅ぼした李芳遠は、定宗より譲位を受け、第3代太宗として即位する。太宗は、内乱の原因となる王子達の私兵を廃止すると共に軍政を整備し直し、政務と軍政を完全に切り分ける政策を取った。また、この時代は朝鮮の科挙制度、身分制度、政治制度、貨幣制度などが整備された。

明に対しては徹底的な親明政策を取り、1401年には明から正式に朝鮮王の地位に冊封される。太宗は、1418年に世宗に王位を譲り上王になったが、軍権はそのまま維持し、1419年応永の外寇と呼ばれる対馬への侵攻を指示した[5]が、対馬国守護大名宗貞盛の奮戦により大損害を被り、撤退した。

次代の世宗、いわゆる世宗大王の時代が、朝鮮の中で政権が最も安定していた時代とされる。王権は強固であり、また王の権威も行き届いていた。一方で1422年まで太宗が上王として実質的な権力を保持していた。世宗は、まず政治制度を王の一極集中型から議政府を中心にした官僚主導の政治に切り替えた。これには世宗の健康問題もあったと言われている。また、明との関係を良好に保つための人材育成にも力を入れた。その中の作業の一環として、現在のハングルの元になる訓民正音の編纂作業が行われた。世宗の時代は31年に及び、軍事的安定と政治的安定のバランスが取れていた時代である。またこの時代に貨幣経済の浸透が進んでいった。対外的には侵攻戦争をたびたび行い、1437年には豆満江以南の女真地域を侵攻し制圧、六鎮を設置して支配した。その後も女真とは対立を続け、幾度も侵攻に乗り出している。

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