憂鬱な瞬間

見知らぬランナーの姿が視界に入る。

無視して通過するもいいだろう。だが、僕は必ず右手を挙げて手のひらを見せる。
相手のランナーもそれに応えるように、同じように右手を挙げて通り過ぎて行く。
お互いに言葉を交わさなくても、心を語る瞬間である。

それでも中には、無視されるランナーも少なくない。
それは少し悲しい出来事かもしれない。
夏の蒸し暑い昼下がり…鎌倉に向かう海岸ロードを走っていても、突然に冷たい風が、寂しい右手に吹いているのだ。





技術の進歩で、あらゆるものが自動化された。
例えば日常生活でも電化製品の普及でボタン操作一つで“手間”がかからず便利になった。

便利になることは人の手の営みが省かれ効率よく物事が運ばれることである。

人間については、いろいろな定義がなされている。

“道具を作り出し、それを巧みに使う動物”というのが最も人間の特質を表現している。
手は人間そのもので、“手と脳”は相互作用で密接に結びつけられている。
“手は外部の脳”であるとは、大脳生理学からも疑う余地のないもの
とされている。

手は単なる物を握ったり、つないだりする物理的な働きだけでなく、感情や心の動きを、そのまま表現する器官であり、緊張したり、怒ったときなどは手を強く握りしめる。

イライラしたあり不安なときは顔の表情とともに手をさまざまに動かし落ち着きを得ようとする。

好意を抱く人に対する手の動きや表情は優しく温かいものになる。

かって、自動ドアが普及していなかった時代は、手でドアを開き何気なく後を振り向き、続く人がいればドアを開けたまま手で抑えて引き継いだ。

“ありがとうございます”“いいえ”といった気遣いと感謝の言葉が自然に交わされていた。

ところが、どこに行っても自動ドアが一般化すると、当たり前になり手を使う煩わしさもなく便利になった。

温かい言葉を交わす人間らしい姿など失われてきているのだ。

“手は口ほどに、ものをいう”と言われる。

ある有名なランナーは、トップ選手として一番の条件は“手”であるという。

“手は、ときには足以上に重要な働きをする。
手の形や動きの悪いランナーは、多の身体条件が揃っていても一流にはなれない“
”と、同様な言葉を聞いたことがある。 


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