迷いから目ざめた瞬間

阿修羅像正面
阿修羅像


昨年11月に右膝を故障した。歩行することも難儀で、日常生活にも困難を極める。
そして、最近まで満足に走ることもできなかった。
その間、私は走ることでの意味を色々と考えていました。
もっと真剣に、またなぜベストを尽くさないのか?
あらゆる自分の短所を数えていた。
阿修羅にならなければ。
私が一番大好きな仏像阿修羅。そのやさしい女性的な表情の裏には、己の情念と格闘する姿が存在している。
それまでの自分にから消えていた存在が、メラメラと心底から火を灯すことになった。
心を打つ存在は、多くはない。
だが、阿修羅像には静寂の中にある忍耐あるいは我慢に秘めた心情が内在している。

そして、僕は阿修羅になる。









この優しい面持ちの阿修羅像は、本来の阿修羅王は、この像から想像するような優美な神ではありませんでした。
 古代インド神話の阿修羅王は、帝釈天を向こうに廻して、荒々しい合戦を繰り返す悪神で、容貌醜怪な札付きの外道とされています。
興福寺の阿修羅像は、この神が釈迦の教化によって仏法の守護神となった姿で、天界を暴れ廻る鬼神のイメージはありません。
しかしこの像をよく見ると、例えば、やや眉根を寄せた悲しげにも見える表情の奥に、何か激しいものが秘められているように思えます。
 この神秘な表情は、荒々しい心が仏の教化によって迷いから目ざめ、愁眉を開きつつある顔付きだといわれています。
まさにその通りで、恐ろしい顔から浄化された顔へと移り行く過渡期の表情を、見事に表現しています。一般に仏像は、男でも女でも無いそうです。
特にこの阿修羅像は、少年か少女のような清純な優しい顔になっています。また、子供から大人になっていく途中ともいわれています。しかし、清純はともかく、やさしいと言うのは正確ではないようです。


一般に仏像は、男でも女でも無いそうです。
特にこの阿修羅像は、少年か少女のような清純な優しい顔になっています。
また、子供から大人になっていく途中ともいわれています。
しかし、清純はともかく、やさしいと言うのは正確ではないようです。


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