Day9:shikoku Pilgrimage 四国霊場108番所巡礼乃旅1400km 自らの無心に向かう


Day9:shikoku Pilgrimage 四国霊場108番所巡礼乃旅1400km 無心と向かう

旅程:中村駅 〜土佐清水市内 〜第38番金剛福寺
日付:2016年5月26日木曜日
天気 曇り後雨 距離 約91km  累計距離 約562km

中村駅前のベンチで野宿した朝は くどい黒雲を空を覆ってる。 昨夜の強い雨に恨めしく感じたい冷たい雨音に何度も起こされる。 天気予報によれば、曇り時々雨 難しい一日になりそうな予感がした。
日本一の清流と呼ばれる四万十川は 何度も訪れた馴染みの川である。毎年10月中旬に開催される四万十川ウルトラマラソンに出場するためにこの街を訪れる思い出多き土地でもある。
旧中村市へのアクセスには、レンタカーを利用することが多いので 国道を走っていると遍路さんが歩く姿を何度も見ることができた。 そんなおへんろさんを車窓から眺めていると、いつかな僕も同じよに歩き遍路をやってみたいと曖昧なで具体的でない夢が少しずつ膨らんできたのを覚えている。
そして、今この瞬間にそのへんろ道を走るひとりの遍路さんであることにある種の感動を覚えていた。 夢が叶うという行動と決断に感動しているのかもしれない。夢は夢であり叶えられないと諦めることも多い。


半島の突端にある足摺岬まで遍路道はいろいろとあり、一番迷うところでもある。
僕の信念として、できるだけ旧遍路道を積極的に走り旅したいとの覚悟がある。それは
弘法大師の歩んだ道を辿り、眺めただろう空や海の情景を心に焼き付けそして歴史を刻む神社仏閣などの歴史史跡を訪ね
古の遍路さんの生きた証を確認し苦行として真実を少しでも知ることができることにある。
それは自らの無心と向き合うことになるのだ。



足摺岬までの往路は、国道27号線の内側(窪津側)から、38番札所 金剛福寺を打つ。
復路は足摺岬をぐるっと周って、そのまま27号線を歩き、岬の付け根で、内側の27号線に入り土佐清水市を経由して大月町から39番札所 延光寺までの遍路道を選択した。
やはり、壮大にして悠久とした土佐の海を眺める遍路道に大きな魅力を感じたるのは事実だ。海に引かれた水平線より臨む空と雲が無心である自分の奥底にある強く刻まれ消去されることのない記憶がいつまでも生命のある限り生き続ける。

足摺岬までの遍路道は
国道をただただ歩くことのみです。途中には旧遍路道を示す道標が点在していて、ようやく本来のへんろさんとして喜びが湧いてくる。
舗装されて歩きやすくまた近道もできて、安易に考えればこの道が選択されてもいいと思います。しかし、この旅は修行の旅です。

敢えて、困難な道をひたすらたどります。延々と続く足摺岬までの遍路道を何時間も走ると
あまり余計なことを考える無くなります。視線は国道の先の水平線を見つめて、自然の風や空、野鳥のさえずる、車の往来するノイズ、川のせせらき、木々の軋む音、虫達の鳴き声、静かな風
あらゆる自然の息吹が五感と一体になり、欲もなく心豊かな気持ちの中で生きることができます。
身体は披露していても、充実した時間を過ごしているのです。
これはいわゆる無心の状態にあるようです。

無 心

無心とは心が無い空虚状態ではありません。
良寛和尚の言葉によれば、

花無心にして蝶を招くの句を示されたように大自然のありのままの生き生きとした姿にそれはあるのです。

人は誰もが無心の中で生まれてきたはずなのに、いつしか知恵とともに欲を持つようになり「ああなってくれ」「こうなるのが当然だ」と、煩悩妄想の世界で右往左往している。
一山、一川、一樹、一草、一虫、一華、一つのいのちが大自然の中でありのままにいのちを輝かせているのを見てください! 
煩悩妄想をすべて無くすことは出来ないが少しでもそういった余分なものから離れて、貴方らしく精一杯生きること、それが「無心」であろう。
どんな現実に直面していようと、自分に与えられた場所でありのままの自分を輝かせることが大切なのではないだろうか。
いま、こうして四国霊場を走り旅する自分がいるのは自分に与えられた場所であり、またこの場所を与えてくれた今は亡き友への感謝がこみ上げてくる。
日常生活では気付かない自分に、この四国霊場ではいろいろな気づきを知り、人の優しさや自然の厳しさそして自分のこれまでの甘さを痛感して止まない。
僕たちは生かされてそして試されているのだ。そんな気持ちがこれから命限り僕の心深く頑なに記憶される。

黙々と走りそして歩く

足摺岬を足を向けてた黙々と歩くだけである。ひたすら歩くだけの四国霊場である。
巡礼者はなぜ歩くのだろうか?その答えが、四国霊場での巡拝が結願して
数ヶ月にようやくその答えを得ることがでた。

つまり、歩くことは修行なのです。ただ、歩くだけで自らの思考と存在を確認しながら
何度も自己と反芻を繰り返す瞑想なのです。
歩いている時には、誰からも束縛されずまた強制も受けず、まったく自由である。日常的な怠惰な時間からも解放された遍路の世界である。
お遍路に来るまでは、意識することもあれば無意識のうちに何かに拘束されている日常生活を実感するが、走る遍路さんとして四国を巡るとそんな感覚も義務も責任もは全く存在しない。
自由な発想で物が考えられる、空想もどんどん広がって行く。
歩きは、物を見たり、考えたり、触れあったりする時の、環境を変えてくれる手段」といえるかもしれない。
歩いている時に、ゆっくりと時間も場所も変わるから、
いろいろな出会いや発想のわきあがりがある。
立ち止まって、景色を見ながらぼんやりと物思いにふけるときもあれば、 真剣に考えるときもある。
何も考えずに、ただゆったり歩いているときもある。
そうかと思えば、黙々とただひたすら歩いているときもある。
どうしようとまったく自由なのだ。
歩くって、こんなにも楽しいものか――実にこのような旅なのだ。
私は、早寝早起きして、俗世間のことなどを忘れて歩き続け、心もそして身体もすっかり健康を取り戻した。そして、裸の自分と出会うこともできた。遍路道の歩きは最高の心のぜいたくだった。
 遍路をしながら、自分の人生を再吟味してみる。今の自分でない自分を見つめなおしてみる。
 そのためには歩くことが最適だし、歩くためには四国の遍路道以上の場所はないだろう。
 歩くということは、人間に何かを与えてくれる。
 逆に言えば、人間は歩くことによってなにかを生み出している。
 歩きは修行であることではないだろうか。

巡礼とは

人間もだけでなく、この地球上に生き物すべてに誕生がり、そして終息を迎える。
また、宇宙に目を向ければどんな惑星なども同じ道をたどるのです。
そして、今ある自分が存在してこの地上を生きることへの意味や意義を反芻する時間も同じ道を歩むことになります。

僕たちは生まれながらにして、自らがどこ進むべきか自問ながら生きていきます。
瞬間瞬間の間でいかに自分の見つめることこそれが巡礼です。
限られた携行装備で遍路道1400kmは、究極のミニマムシストではないでしょうか?
心も体も極限の状態で枯渇と渇望の観念がどよどよした精神世界です。
お接待でいただいた一個のみかんに涙し感謝することへ心からの感動と歓喜を得られる。それは
実践的な答えとして、人はひとりでは生きていけないことだと悟る瞬間でもあります。
人との関わりを捨てさることはできないのです。
人との交流がめんどくさいなと思ったら、一人で歩き遍路への巡礼旅をお勧めします。

四国霊場八十八箇所 距離http://hen6.web.fc2.com/plan/plan_tokushima.html
四国八十八箇所*の道
四国別格20霊場の道
資料及び引用
清水に参る道

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