だったのか??それはもいだったのか??それは間違いでう インド独立と日本軍
インドはどうして親日なのか?
それは日本のインパール作戦でありインド独立にある。
我欲主義国家と、愛情主義国家の戦法の違い】
果たされたインドとの約束・・・インパール作戦!1943(昭和18)年10月23日、 日本政府はチャンドラ・ボースが主席を務める 「自由インド仮政府」を承認し その目的達成を極力支援する帝国政府声明を発しました。 翌24日、自由インド仮政府はアメリカ・イギリスに宣戦布告しました。 そしてボースの申し出に応じて日本政府は占領下の アンダマンとニコバル諸島を 仮政府に帰属させました。 二週間後の1943年11月6日 大東亜戦争の最中、東京で大東亜会議が開催されました。 「大東亜戦争を完遂し、大東亜を欧米列強から解放する」 この事を謳った「大東亜宣言」を採択しました。 その後、ビルマのバーモウ総理の提案で、 「インドを英国から解放しようとしているボースに完全なる支援を与える」 という宣言が追加されました。
そして自由インド仮政府のチャンドラ・ボースがこう語りました。
「インドにとりましては、イギリスの帝国主義に対する
徹底的抗戦以外に途は無いのであります。
対英妥協は、
奴隷化との妥協を意味するものである。
奴隷化との妥協は、決して行わない。」
日本はインドの独立支援を国際的に約束したのです。
果たされたインドとの約束
・・・インパール作戦!
インパール作戦は、インパール戦ではなく、『作戦』でした。
つまり、先ず『目的=「インド独立」』があって、
それを達成する為にあったのですね。
その作戦の手法は、武士道の奥義「肉を切らせて骨を断つ」
(=自分自身も傷つく覚悟をして、
相手により大きな打撃を与えること)です。
作戦は見事に遂げ、大東亜宣言の悲願は達成しました。
二年後インドは独立を果たしたのです。
インパール作戦については、第三者から批判の声が多いのですが
それとは裏腹に、実際に参加し、
生き残った日本兵が書いたどの本を見ても、
「最初から最後まで、日本兵の士気は高かった」
様子が描かれているそうです。
武士道における勝利とは、
単なる「勝ち」「負け」を越えた何かがあります。
この作戦に於いて
敵の英国は15万の軍勢でした。日本軍は9万。
その頃、すでに劣勢にあった日本軍は
縮小の方向だったのにもかかわらず、
他国の独立の為に日本は戦いました。捨て石を覚悟でした。
インド国民軍の兵士は4.5万人もいましたが
日本軍はインド国民軍を6千名しか戦いに参加させませんでした。
4万のインド国民軍を温存しました。
それには
独立後を「頼む」というメッセージが込められていたのでしょう。
「俺達は捨て石となる。晴れて独立した後は、頼むぞ!」と。
米国などの我欲主義国家は戦う際、
先ず黒人を前面に出して戦わせ、敵の弾丸を浴びさせ、
白人の兵士は安全になったら出てゆくと聞きます。
その様な世界の常識からすれば
他国(インド)の独立の為に戦うのならば、
インド兵を前面に出すのが当然でしょう。
しかし、牟田口中将以下の日本の将兵は、それをしませんでした。
自分たちが戦いの先頭に立ったのです。
それが史実です。
自らの命を賭してでも目的を貫き通した結果、
目的が達成できれば
たとえ死んでも本望だとする日本精神。
これが根底にあった「作戦」だったのです。
牟田口中将は「皇軍兵士」という言葉を多発していたそうです。
「この戦いで、日本は負けるかもしれない。
しかし、ここで戦った日本兵の心は、インドの人々の心に残り、
かならずやインドの人々の決起を促すであろう」と。
その明確な目的を持った「作戦」は見事達成したのです。
さて日本が悠久の歴史を貫いてきた愛情主義と対照的なのが、
敵国・英国軍の我欲覇権主義を動機とした戦い。
彼らは日本の兵士たちと戦って何を感じ取ったのでしょう。
彼らは栄養満点の食事をとり、武器弾薬も豊富に持っています。
それに対し、日本の他国(インド)のため、大義のための戦いは
ガリガリにやせ細り、大けがをしながら
殺しても殺しても向かってくる!!
後に敵が日本兵と戦った時の印象を次の様に述べています。
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●インパール作戦の時の元グルカ兵の証言
『我々は世界最強の傭兵だ。
第二次大戦で英軍の傭兵の時、マレー軍を3時間で撃破した。
インド軍は1日で降参させた。
だが、日本の正規軍との戦いは過酷で一週間不眠不休で戦わされ、我々も半数以上が戦死した。
これだけの死闘は初めてで、
勇敢な敵軍を尊敬したのはこの時だけだった。
玉砕した日本軍の所に行ってさらに驚いた、
日本軍は貧弱な武器なうえ食料も、わずかな米しかなく、
日本軍の死体はみんな
やせ細っていた。
戦友が死んだ時には泣かなかったが、
敵である死んだ日本人を見て皆泣いた。』
●イギリス:スリム中将(イギリス第14軍司令官)
たたかれ、弱められ、疲れても
自身を脱出させる目的ではなく
本来の攻撃の目的を以て、
かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、
史上にその例を殆ど見ないであろう。
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英国軍は、勝ったのに、敗北感を抱いたのではないかと想像できます。
弱肉強食主義世界では、戦場に於いては、
一般人を見れば襲うのが当たり前です。
しかし日本では、襲わないのが当たり前であり、
当たり前なのですから、自身を誇る事さえしません。
それが、愛情主義国家・日本なのです。
飢餓でやせ細った姿で街道を引き揚げた日本の将兵たちは、
誰一人、街道筋にある村や家畜、畑を襲っていないのです。
餓死しても襲わなかったのです。
退路の街道筋には、ビルマ人の民家が点在しています。
日本兵は、銃を持っているのです。
銃で脅せば、空腹を満たせる。
屋根の下に寝ることだってできる。
怪我の薬を奪うことだってできる。
これを襲わないのは、日本人には当たり前ですが、
弱肉強食主義世界からは不思議に見えます。
さて勝ったのに敗北感を感じたであろう英国軍は
後の東京裁判では、まだ独立も果たしていないインドから、
わざわざ代表判事を送り込んでいます。
ラダ・ビノード・パール判事です。
そしてそのパール判事が日本を擁護する判決付帯書を
書くことについて、
当時の英国はまったく否定せずこれを容認しています。
なぜ英国は黙認したのでしょうか。
植民地支配するインドの代表判事には、
ちゃんとした「事実と正義」を判決として書かせています。
ここにもインパール「作戦」の成功が見えます。
1947年(昭和22)8月15日、終戦から二年後
インドは独立しました。
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●英国ロンドン大学教授 エリック・ホプスバウ博士
「インドの独立はガンジーやネールが率いた
国民会議派が展開した非暴力の独立運動によるものではなく、
日本軍とチャンドラ・ボース率いるインド国民軍が
協同してビルマを経由しインドへ侵攻した
インパール作戦によってもたらされたものである」
●インド国民軍退役軍人 デロン中佐の手紙
「日本はインドにとっては良い国だと思います。
日本はチャンドラ・ボースと共にインド独立の為に戦ってくれました。
これはハッキリ言えます、
インドは日本軍の犠牲により独立する事が出来たのです。
もしあんなに犠牲者を出さず、またインド国民軍に協力しないで
インドに進出した場合、
イギリス軍のインド部隊は、自分達の方針を変えなかったでしょう。
25万のインドの軍が方針を変えチャンドラ・ボース軍となった事により
英国から独立する事が出来たのです。
私達は、常に日本に対し、感謝の気持ちを持っています。
最後にもう一度
ありがとうございました。」
「太陽の光がこの地上を照らす限り
月の光が、この大地を潤す限り、
夜空に星が輝く限り
インド国民は、日本国民への恩は
決して忘れない。
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