―三角寺より雲辺寺へ―
―三角寺より雲辺寺へ―
照り返すアスファルトの上、熱風が草木を揺らす。
朝早く三角寺で納経を終えた幸月は、額に手拭いを巻いて道に立った。
「雲辺寺……標高900メートルか」
地図を見ても、細い山道がうねるだけ。遍路地図には「難所」と赤い印が踊る。
けれど僕には、進む他に選択肢がない。札所は、自分を裏切らない。
いや、そう思いたいのかもしれない。
ザク、ザク。草を踏み分ける音。
舗装された道はすぐに尽き、雑木林へと吸い込まれていく。
誰もいない。風の音と蝉の声。水筒の水はぬるくなり、足は泥に取られる。
「……足が重い」
半月前、幸月は会社を辞め、荷物を背負って四国に渡った。
親も友も恋人もいない。ただ、消えたいほどの疲れだけがあった。
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昼過ぎ、朽ちかけた小屋の軒下で休む。
背中に回したリュックを降ろし、干からびたパンをかじる。
そのとき、カサリと笹の中から音がした。
「誰か……?」
現れたのは、白衣に金剛杖を持った年配の男だった。
深く帽子をかぶっていたが、口元には微笑があった。
「酷い道じゃな。草遍路さんか?」
「ええ……でも、こんなとこに人がいるなんて」
「わしも昔、そうだった。みんなが忘れた道を歩くとな、心の中が少しずつ片付いていくんじゃ」
僕は何も言えなかった。
男はポーチから冷たい麦茶のボトルを取り出し、ひとつ幸月に差し出した。
「接待じゃ。遠慮せんでいい」
冷たい麦茶は体に沁みた。幸月は思わず涙をこぼした。
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夕方、雲辺寺のロープウェイ下に着く頃には、男の姿はもうなかった。
見送るでもなく、名乗るでもなく、ただ山道に消えていった。
雲辺寺の鐘が、風に揺れて鳴った。
空は高く、沈む陽が山影を金色に染めていた。
幸月は本堂に向かって手を合わせ、声なき声でつぶやいた。
「もう少しだけ……歩いてみようかな」
――草遍路の旅は、まだ続く。
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