西国三十三所草創1300年:走る巡礼として
西国三十三所草創1300年を記念して
四国霊場に続き走る遍路として
総延長距離1000kmの巡礼を発心です!!
平成30年(2018)は、かつて大和国長谷寺の開山徳道上人が病にて仮死状態になられた際、冥土で閻魔大王に会い、「生前の悪い行いによって地獄へ送られるものが多い故、観音の霊場へ参ることにより功徳が得られるよう、人々に観音菩薩の慈悲の心を説け」とのお告げを受け、起請文と宝印を授かって現世に戻され、その証拠でもって人々に観音信仰、及びその霊場へ参ることをすすめられた養老2年(718)より、数えて1300年になります。
徳道上人が極楽往生の通行証となる宝印をお配りになったという場所は、観音菩薩が衆生を救うために示現された霊験所や寺院でした。
このことにより、やがて観音霊場を巡る西国三十三所という信仰となり、西国三十三所は日本最古にして、巡礼の元祖となりました。
西国三十三ヶ所は
近畿2府4県と岐阜県に点在する33ヶ所の観音霊場
(番外3つを含めると36ヶ所)を巡ることをいいます。これらの霊場を札所とした巡礼は日本最古の巡礼行です
四国八十八箇所より古いのです。
ちなみに
西国を巡ることを巡礼
四国をめぐることを遍路というんですって
どっちも一緒かと思いました・・。
三十三ヶ所にも意味があり
観音さまが三十三の姿に身を代えて人々を救うことからきています
霊場ができた起源は
伝承によると
奈良時代、大和国の長谷寺(8番札所)の開基である
徳道上人が62歳のとき、
病のために亡くなるが冥土の入口で閻魔様に会い、
生前の悪さによって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、
日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳
(悪いことから許される効果があるよ)があるので
巡礼によって 人々を救うように託宣を受け
とともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻されたとか
そしてこの宝印に従って霊場を定めました
上人はこの三十三所巡 礼を人々に説くが
世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、
機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印
を播磨の国・中山寺(24番札所)の石櫃に納めてしまいました
そして三十三所巡礼は忘れ去られていったとか???
その約270年後、平安時代に
花山法皇 が
紀州の那智山(1番札所)で参籠していた折、
熊野権現が姿を現し上人が定めた
三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けた。
そして中山寺で宝印を探し出し、
播磨国・書写山円教寺性空上人の勧めにより
河内国・叡福寺の仏眼上人を指導者として
三十三ヶ所霊場を巡礼したことから人々に広まりました
室町時代からその組み合わせは』以来、変化が無いとか
江戸時代には庶民に観音巡礼が広まり、
関東の
坂東三十三ヶ所や
秩父三十三ヶ所を併せて
日本百観音と呼ばれるようになり
これにより東国の巡礼者が増えました
ちょうどこの時代は伊勢参りなど旅行がブームでしたから
伊勢参り→熊野詣→西国へとなる人が多かったので
順番も那智の青岸渡寺から東国の帰路に着きやすい
美濃国の華厳寺をゴールにする形になったとか
すごく納得しました。。。
第一番から第三十三番までの巡礼道は約1000km
頑張って満願めざします。
三十三という数字とは
『法華経』普門品第二十五(観音経)に説かれ、観音菩薩が33の姿に身を変えて人々の心の悩みや苦しみを救うとあります。
いつ、いかなる困難に出会っても、観音菩薩は慈悲の心でもって常に人々を見守っておられ、一心にその名前を称え、「念彼観音力」(ねんぴかんのんりき)を心に念ずれば、ただちにその声に応じて私たちを救済してくれます。
ボクたちは、物の豊かな時代にあって、さまざまな歴史や文化を背景とした異なる価値観が交差し、急速に変わりゆく現代社会の中で、忙しく毎日を生きつつ、人間である限り、国や時代を問わず、幸せを願いながら悩みや苦しみ、不安な気持ちをかかえて過ごしています。
このような時、西国三十三所の観音菩薩を巡拝し、手を合わせることによって、心の中に波立つさまざまな苦しみや悩みがしずまり、自分自身を見つめ直し、人を思いやる慈(いつく)しみの気持ちを持つようになり(現世安穏)、そして、観音菩薩の御前で心をひらくことによって、それぞれの人生をふりかえり、心を洗い清めれば、極楽往生の一歩となる(後生善処)でしょう。
走る遍路の巡礼道紹介↓
西国三十三所古道
四国霊場に続き走る遍路として
総延長距離1000kmの巡礼を発心です!!
平成30年(2018)は、かつて大和国長谷寺の開山徳道上人が病にて仮死状態になられた際、冥土で閻魔大王に会い、「生前の悪い行いによって地獄へ送られるものが多い故、観音の霊場へ参ることにより功徳が得られるよう、人々に観音菩薩の慈悲の心を説け」とのお告げを受け、起請文と宝印を授かって現世に戻され、その証拠でもって人々に観音信仰、及びその霊場へ参ることをすすめられた養老2年(718)より、数えて1300年になります。
徳道上人が極楽往生の通行証となる宝印をお配りになったという場所は、観音菩薩が衆生を救うために示現された霊験所や寺院でした。
このことにより、やがて観音霊場を巡る西国三十三所という信仰となり、西国三十三所は日本最古にして、巡礼の元祖となりました。
西国三十三ヶ所は
近畿2府4県と岐阜県に点在する33ヶ所の観音霊場
(番外3つを含めると36ヶ所)を巡ることをいいます。これらの霊場を札所とした巡礼は日本最古の巡礼行です
四国八十八箇所より古いのです。
ちなみに
西国を巡ることを巡礼
四国をめぐることを遍路というんですって
どっちも一緒かと思いました・・。
三十三ヶ所にも意味があり
観音さまが三十三の姿に身を代えて人々を救うことからきています
霊場ができた起源は
伝承によると
奈良時代、大和国の長谷寺(8番札所)の開基である
徳道上人が62歳のとき、
病のために亡くなるが冥土の入口で閻魔様に会い、
生前の悪さによって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、
日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳
(悪いことから許される効果があるよ)があるので
巡礼によって 人々を救うように託宣を受け
とともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻されたとか
そしてこの宝印に従って霊場を定めました
上人はこの三十三所巡 礼を人々に説くが
世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、
機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印
を播磨の国・中山寺(24番札所)の石櫃に納めてしまいました
そして三十三所巡礼は忘れ去られていったとか???
その約270年後、平安時代に
花山法皇 が
紀州の那智山(1番札所)で参籠していた折、
熊野権現が姿を現し上人が定めた
三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けた。
そして中山寺で宝印を探し出し、
播磨国・書写山円教寺性空上人の勧めにより
河内国・叡福寺の仏眼上人を指導者として
三十三ヶ所霊場を巡礼したことから人々に広まりました
室町時代からその組み合わせは』以来、変化が無いとか
江戸時代には庶民に観音巡礼が広まり、
関東の
坂東三十三ヶ所や
秩父三十三ヶ所を併せて
日本百観音と呼ばれるようになり
これにより東国の巡礼者が増えました
ちょうどこの時代は伊勢参りなど旅行がブームでしたから
伊勢参り→熊野詣→西国へとなる人が多かったので
順番も那智の青岸渡寺から東国の帰路に着きやすい
美濃国の華厳寺をゴールにする形になったとか
すごく納得しました。。。
第一番から第三十三番までの巡礼道は約1000km
頑張って満願めざします。
ボク的走る巡礼スタイルの約束
1.西国33札所の古道を忠実にたどること。
必要最低限の荷物だけです。
1.自らの脚だけで結願すること。(鉄道、バス、車、自転車、バイク、飛行機等の交通機関は絶対に使用しないこと。)
1.一泊2日の旅程にて区切り打ちする。(なかなか会社を休めないので・・・・。)
1.宿泊先は原則野宿のみ。
巡礼とは野宿であるとボクは信念を持っています。
1.日常生活に必要な装備は、すべて自分で担いで移動する。
1.順打ちで巡拝すること。
1番青岸渡寺から33番華厳寺まで順番に打つこと。
三十三という数字とは
『法華経』普門品第二十五(観音経)に説かれ、観音菩薩が33の姿に身を変えて人々の心の悩みや苦しみを救うとあります。
いつ、いかなる困難に出会っても、観音菩薩は慈悲の心でもって常に人々を見守っておられ、一心にその名前を称え、「念彼観音力」(ねんぴかんのんりき)を心に念ずれば、ただちにその声に応じて私たちを救済してくれます。
ボクたちは、物の豊かな時代にあって、さまざまな歴史や文化を背景とした異なる価値観が交差し、急速に変わりゆく現代社会の中で、忙しく毎日を生きつつ、人間である限り、国や時代を問わず、幸せを願いながら悩みや苦しみ、不安な気持ちをかかえて過ごしています。
このような時、西国三十三所の観音菩薩を巡拝し、手を合わせることによって、心の中に波立つさまざまな苦しみや悩みがしずまり、自分自身を見つめ直し、人を思いやる慈(いつく)しみの気持ちを持つようになり(現世安穏)、そして、観音菩薩の御前で心をひらくことによって、それぞれの人生をふりかえり、心を洗い清めれば、極楽往生の一歩となる(後生善処)でしょう。
走る遍路の巡礼道紹介↓
西国三十三所古道
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