熱海に移住して花火を眺める
東京にいた頃、僕はたびたび熱海を訪れた。ある時は仕事で、またある時は理由もなく。その頃の熱海は、すこし疲れた男と女が、互いの心にできた小さなささくれをなだめるために訪れる、そんな場所だった。駅前の商店街には、まだ昔ながらの土産物屋が並び、射的の銃声が乾いた音を立てていた。それはそれで悪くはなかったけれど、僕はいつも、その街の奥に、何か別の種類の静けさを求めていた。
移住を決めたのは、ある花火大会の日だった。東京で仕事を終え、いつものように新幹線に飛び乗り、熱海に向かった。街全体が、まるで巨大なコンサートホールの熱気を帯びている。人々はビールを飲み、たこ焼きを食べ、そして皆、同じ方向、つまり海に向かって顔をあげていた。僕もその群衆の中にまじり、港の防波堤に座り込んで、煙草に火をつけた。
やがて、花火が始まった。最初はごくささやかな、音もなく空に上っていく光の点だった。それが頂点に達したとき、まるで誰かが巨大なマッチに火をつけたように、ぱっと開く。音は少し遅れて、まるで海の底から響いてくるように、腹の奥にずしりと響いた。その瞬間、僕は自分の身体が、その花火の光と音にすっぽりと包み込まれていくのを感じた。それはある種の解放感だった。もう何年ものあいだ、僕の肩に乗っていた、言葉にできない重みが、その光と音によって、少しずつ溶けていくような気がした。
その花火を最後に、僕は東京を離れ、この高台の家に移り住んだ。
この家に引っ越してきてから、僕は一度も腕時計をしなくなった。時間というものは、潮の満ち引きと、空の色と、そして何よりも、花火の有無によって決められる。熱海の花火は、驚くほど頻繁に開催される。夏だけでなく、春も、秋も、そして冬の澄み切った空気の中にも、それはやってくる。
ある冬の夜、僕は書斎の窓から、いつものように海を眺めていた。仕事はもう終えていた。テーブルの上には、飲みかけのブラックコーヒーと、まだ頁のほとんど開かれていないドストエフスキーの小説が置いてある。
とつぜん、真っ暗な海の向こうに、花火が上がった。
静かな夜の闇に、白く、鮮やかな光の線が描かれ、そして巨大な花となって開く。音は少し遅れて、窓ガラスを微かに震わせた。
それは完璧な花火だった。花火師が意図したであろう、すべての要素が、その瞬間、その場所に凝縮されている。光の広がり、色の組み合わせ、そして少し遅れてやってくる、腹に響く音。それは誰のために打ち上げられたのでもなく、ただそこに、存在しているだけだった。
僕はコーヒーを一口飲み、ソファに深く身体を沈めた。
花火は続いている。
夜の闇の中、僕の身体はすっかり、その光と音に馴染んでいた。東京にいた頃に抱えていた、あの言葉にできない重みは、もうどこにも見当たらない。かといって、何か新しいものが生まれたわけでもない。ただ、僕はここにいて、花火を眺めている。それがすべてだった。
僕は窓の外に視線を戻し、ドストエフスキーの本を閉じた。もう今夜は、これ以上何も必要ない。僕には、花火を眺めるという、ごくささやかで、そして完璧な仕事が残されている。



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